そんなとき、資生堂の春のキャンペーンCMの話が舞い込んできた。そこで生まれたのが皮肉にもEPOにとって最大のヒット曲となった『う、ふ、ふ、ふ、』である。
イギリスのレコード会社から世界デビュー
「当時はあの曲の元気さについていくのが精いっぱいで歌うことを楽しめませんでした」
そんな彼女に転機が訪れたのは'88年のこと。イギリスの「ヴァージンレコード」から世界デビューのチャンスが訪れる。
「28歳のとき、今後の方向性に悩んでいた私に、元気なEPOもいいけど君の声にはもう少し違うアプローチが似合うよと言われ、深い味わいのあるミディアムテンポの曲やバラードを何曲も作り、歌いました。
アルバム『FIRE&SNOW』、シングル2曲をリリースしただけで終わってしまったけど、イギリスで過ごした2年間は、私にとってとても貴重な経験になりました」
今まで海外に目を向ける暇などなかったEPOにとって、この2年間に見たり聞いたりしたものが、その後の糧となり、新たなスタートを切るきっかけになった。
'91年、イギリスから帰国したEPOはレコード会社を移籍すると、よりオリジナリティーにあふれたEPOワールドへの挑戦を始める。'92年、ブラジル音楽に造詣の深い日本人アコースティックバンド「Choro Club」とコラボして作ったアルバムが、EPOにとって大きな転機となる。
「アルバム『WICA』は、生き方と歌が離れないようにしよう。そう心に決めて作りました。ブラジル音楽はもともと好きだったのですが、『Choro Club』との出会いが、この後の音楽活動を大きく変えるきっかけになりました」
そして'09年。EPOワールドの一つの到達点といわれる傑作『AQUA NOME』が生まれる。
「目を閉じると周りを海に囲まれた島の上を飛ぶ絵が浮かんで、元からその島にあった歌を思い出すように、蛇口をひねるように1日に何曲も曲が降りてきました」
この曲をEPOは42歳を迎える年に初めてライブで披露。10年の時をかけ熟成させてアルバムとして発表した。このアルバムを完成させるとEPOにもある心境の変化が訪れる。
「自分の本当にやりたい音楽をやるようになったら、今までつらくて歌えなかったポップな曲が歌えるようになった」
しかしこの心境にたどり着くまでには、さまざまな葛藤があった。EPOは幼いころから、人には言えないトラウマを抱えていたのである。
「精神疾患のある母の異常行動に日々苦しめられたり、信頼していた音楽出版社の印税の横領、事務所からのギャラの未払いなど、金銭トラブルに見舞われ続けました。その経験から人間不信に苦しみ、かねて興味を持っていた退行催眠によるカウンセリングを本格的に受けました」











