ブラジル移住、裕福な生活から苦役へ
猪木家がブラジルに移住したのは、1957年2月下旬、横浜港に停泊する移民船「さんとす丸」に乗り込み、腹違いの兄で次男の康郎と、長女の千恵子を除く大家族がごっそりと日本を離れた。
啓介は当時の猪木家の事情をこう解説する。
「兄貴はインタビューなんかで『苦しい生活から脱出するためにブラジルに渡った』とか言ってたけど、自宅は600坪の2階建て。大邸宅でした。それに幼稚園も経営して土地の名士。生活に困った記憶なんて全然ないんです」
では、なぜ邸宅を次男の康郎に譲渡してまで渡伯したかというと、長兄・寿一が拓殖大学に在籍していたことと関係がある。拓殖大学は1900年の創立以来、アジア開拓を校是に掲げ、戦後も海外雄飛を説いていた。
「最初はアメリカに移住するって話だった。でも、計画が二転三転してブラジルになった。もし、アメリカに行ってたらどうなっていたか、これも運命の分かれ道でしたね」
しかし、ここから不運に見舞われる。祖父がパナマ運河に位置するクリストバルの港を出港した直後に急逝。
さらに、目的地であるブラジルに到着すると、「楽園」と事前に聞いていた暮らしぶりと、まったく異なる状況に置かれた。「あの衝撃は今も時々思い出す」と啓介は述懐する。
「忘れもしない、サンパウロから600キロ離れたリンスという村に着いたんです。案内された家が粗末な長屋で、隣の家とはベニヤ板1枚。電気も水道も、トイレすらない。それまで邸宅に住んでいたんですよ。あちこちで夫婦ゲンカが起きたりして、あのときほど、愕然とした経験はないもの」
だが、苦難はなお続いた。移民に課せられた仕事は、コーヒー農園におけるコーヒー豆の収穫作業だが、その方法が過酷だった。4メートル以上のコーヒーの木の枝の実をすべて袋に詰めてトラックの荷台に載せる。重さにして1袋約60キロである。
「トラックの荷台が高く積み上がると、力任せに放り投げる。きついなんてもんじゃないです。中学生の兄貴は大人に交じってそれをやっていた。あまりのつらさに、兄貴は4男の快守兄貴と一緒に脱走を企てようとしたくらい。未遂に終わったんだけど」
過酷な労働で手に入れた肉体
作業は奴隷労働に等しく、1年半の契約期間は無断で移動することも許されない。きょうだい全員が酷使された。
「ただ、苦しかったのは事実だけど、今にして思えば、ブラジルに行ったから猪木家の運が開けた気もしますね。例えば寛至兄貴は、過酷な労働であの肉体を手に入れたわけだし、ほかのきょうだいも、横浜にいたら、裕福な暮らしにあぐらをかいて、何もしなかった気がするから」
寛至、啓介共に親交がある力道山夫人の田中敬子さん(84)は、事態が好転した理由を「性格が引き寄せたのかも」と分析する。
「啓介さんの本来の性格は、のんびり屋。でも、のんびり屋さんほど、尻に火がついたら、大きな力を発揮するもの。根拠は私自身がそうだからよ(笑)。そういう環境に置かれて、一家全員がそうなったんじゃないかしら」
その後、1年半の契約期間を終え、70キロ離れたマリリアという農村に移った。コーヒー農園の作業から解放された猪木家は、日系人の農場主から農地を借りて、好きな農作業に従事するようになる。
「最初は綿花を栽培することにしたんだけど、隣人の日系移民に誤った栽培方法を教えられて大失敗。彼らは戦前から苦労してきた先住移民だから、われわれのような新参者を快く思ってなかったんでしょう」
しかし、その失敗した綿花をそのまま土に廃棄したことで、思わぬ僥倖が舞い込む。
「その後、落花生の栽培に取り組んだんだけど、初年度から大豊作。綿花を土に廃棄したら土壌が劇的に良い状態に変わった。ほかの畑の落花生が不作だったこともあって、かなり高値で売れたんです」
落花生栽培で成功を収めた猪木家は、農場を所有するに至る。
生活にゆとりができたこの時期、寛至は砲丸投げの練習を再開させていた。
「ここでも私はランプを持って距離を計測する係。すると、横浜のころとは比較にならないほど距離が伸びていた。当時の世界記録は20メートル程度だけど、15メートルは放ってたと思う」
練習のかいあって、寛至は、砲丸投げより記録を出しやすい円盤投げで「全伯陸上大会」の新記録を打ち立てる。それがブラジル遠征に来ていた力道山の目に留まって、念願のプロレス入りの夢を果たすのである。











