スターになった兄の帰省が転機に
兄・寛至だけ日本に帰国したことで、猪木兄弟の絆も切れたかに見えた。
兄の帰国後は都市部で学校に通っていた啓介だが、「いつかは大きな農場を開きたい」という夢があった。広大な農場を持つことが、成功者としての証だったからだ。
しかし、兄・寛至との交流が復活したことで、別の夢を引き寄せる。
「兄貴が25歳ごろにサンパウロに一時滞在したんです。ジャイアント馬場さんとのコンビで人気を博していた時期で、私は20歳。兄貴は身体がさらに大きくなっていて『本当にプロレスラーになれたんだなあ』って感激しました」
その後「アントニオ猪木が案内するブラジルの秘境」なるテレビ番組の企画があった。第2の故郷であるブラジルの奥地を、人気プロレスラーが案内するという構成で、NET(現テレビ朝日)で放映されることになった。そのとき、現地のコーディネートを任されたのが啓介だった。
「当時の日本人はブラジルのことをよく知らない。それで、僕が案内役になった。ここでも『おまえがやれ』って兄貴に命じられて(苦笑)」
この番組に携わったテレビ関係者の一人が、プロレス中継の実況を務めていたアナウンサーの舟橋慶一さん(87)である。
「最初に啓ちゃんと会ったのは、ブラジルのロケのとき。『ウチの弟です』って猪木さんに紹介されたのが最初でした。第一印象は『目の輝いている少年』(笑)。キラキラして澄んだ瞳をしてるんです。でも、われわれテレビのスタッフよりたくましいんですよ。ジャングルに分け入って『頼りになるなあ』ってつくづく感心したりして」
義姉・倍賞美津子と兄の偉大さ
1971年11月、アントニオ猪木は女優の倍賞美津子と結婚。結婚式に列席するため、啓介は母の文子を伴って日本に一時帰国する。14年ぶりに、母国の地を踏んだ。
「結婚式の数日前に、練馬の倍賞家で宴会が催されて。倍賞家も大家族でしょう。人気女優の千恵子さんもそろって、深夜まで大騒ぎ。倍賞家は全員、酒が強くて、思い出しても酔いが回ってきそう(笑)」
そんな幸せの絶頂にある時期に、寛至は日本プロレスを追放され、新日本プロレスを旗揚げ。背景には団体内の権力闘争があった。
兄の苦しい時期を二人三脚で歩んだ倍賞美津子の記憶は、啓介の脳裏に鮮明に残っている。
「美津子さんには『啓ちゃん』って可愛がってもらって、本当の姉のように思ってました。あの人はきっぷのいい人なんです。彼女の存在は本当に大きかった。世間的には人気女優なのに、内助の功で兄貴を支えた。ああいう関係を“戦友”と呼ぶんでしょう」
結婚式後、本来なら、母と一緒にブラジルに帰国する予定だった啓介だが「おまえは東京に残れ」と兄に命じられた。このとき、啓介に託されたのは、「新日本プロレスの営業社員となって、切符を1枚でも多く売れ」という重大任務だった。
「兄貴にとって唯一の弟だから、昔から命令は絶対。でも、チケットを売り歩く営業の仕事は未経験でした。だから、普段は弟であることは内緒にしていたけど、営業のときは『弟』をアピールして、売りまくったものです(笑)」











