夢の事業、大失敗の果てに決意

1980年、ブラジル政府の要人を招き「アントン・ハイセル」リサイクル工場の操業式典にて。左端は5男の宏育さん
1980年、ブラジル政府の要人を招き「アントン・ハイセル」リサイクル工場の操業式典にて。左端は5男の宏育さん
【貴重写真】1953年、横浜で生活していた当時の猪木家

 軌道に乗った会社が本業とは別のビジネスに打って出るのは、世の常と言っていい。その利益創出を命じられたのもまた啓介だった。

「その前から僕は輸入販売を手がけていて、ブラジルの珍獣を輸入しては、得意先に売っていた。それが結構な利益になったので設立した会社が『アントン・トレーディング』。さらに兄貴が『スペアリブのうまさを広めたい』という思いから開店したのが『アントン・リブ』。経営から味つけから全部任された。それも『おまえがやれ』のひと言で(苦笑)」

 ここでも、啓介に仕事が集中した理由を、舟橋さんはこう解説する。

「あの時代の新日本プロレスは、ずいぶん儲かってましたけど、お金の流れが不透明な部分はあった。猪木さんもうすうす気づきながら、メスを入れる余裕はなかった。そこで頼れるのは『弟しかいない』と。当時の猪木さんの周辺には、社員やスタッフが大勢いましたけど、本当に信頼していたのは、啓ちゃんだけだったと思います」

 そんな矢先に手がけることになったのが、後に猪木兄弟の運命を左右する壮大な計画「アントン・ハイセル」である。

 そもそもこの計画は、ある人物が「夢のリサイクルに協力してほしい」と持ちかけてきたことがきっかけだった。サトウキビの搾りかすに含まれる不要物質を、微生物の力で分解、発酵させることで、牛の飼料に変えるという画期的なプランである。

 ブラジル国内の環境問題のみならず、牛の生産量も飛躍的に増加、世界の環境問題と食糧問題が同時に解決できる夢のプロジェクトに、兄は「やりましょう」と即断した。

「私自身も賛成ではあったけど、最初は様子を見ながら、少しずつ動かしていけばいいと思った。それなのに兄貴は『40億円突っ込む』って言ったんです。耳を疑いました。そして当然ながら『啓介、おまえがやれ』と(苦笑)。私はポルトガル語が話せるから、ブラジル政府の要人に会うときの通訳にもなる。そういう計算もあったと思います」

 かくして始まった夢の計画だったが、いくら飼料を作っても、牛が食べようとしなかった。「早い話、全員が素人だった」と啓介は苦笑する。

「どんどんお金だけ出ていく。手に負えない段階まできたときに出会った岡山の林原生物化学研究所の人が『われわれにお任せください』って協力してくれることになった。発酵飼料の試作品が完成すると、今までは食べようとしなかった牛が食べ始めて、肥り始めた。『よし、これで大逆転できる』って思った矢先に信じられないことが起きました。突然やってきたブラジルの軍隊が、牧場にいた牛を一頭残らず持っていってしまったんです」

 当時、インフレに悩まされていたブラジル政府が、物価凍結令と食肉強制出荷令を執行したのである。

「そういうことがブラジルでは頻繁に起こる(苦笑)。ただ、今にして思えば、牛にこだわることなかった。羊でよかったんです。何より繁殖力が違うし、国によっては羊のほうが高値で売れる。『これも勉強だなあ』って痛感しましたね」

 結果的に「この事業はプロレスの経営にも影響を及ぼす」と判断が下され、新日本プロレスとアントン・ハイセル事業は切り離された。輸入業の「アントン・トレーディング」も、フランチャイズ展開していた「アントン・リブ」も負債整理のあおりですべて売却。

 ここで、啓介は決断をする。「この機会に学んできた微生物やバイオの知識をもっと深めたい」と、新日本プロレスを離れ、事業を継続させたのだ。

 一連の顛末について、友人である大山公知さん(67)は嘆息しながらこう述べる。

「ハイセルという事業は確かにうまくいかなかったかもしれない。でも、ここから啓介さんの医療とか健康面への探究が始まるわけでしょう。転んでもただでは起きない。つまり、あの失敗がなければ今の啓介さんはいない。そういう強さは、猪木家のDNAかもしれないですね」

 これ以降、啓介は日本を離れ、アガリクスの栽培、販売に従事、兄とは異なる道を歩むようになる。その間、兄は1987年に16年間連れ添った美津子と離婚、1989年に別の女性と再婚し、その直後、参議院議員に初当選する。長きにわたって兄を支えてきた啓介だったが「離婚も再婚も当選も落選も全部ブラジルで知った。'90年代の兄貴の行動には直接は関わっていない」と言う。

 このまま、別の道を歩むと思われた猪木兄弟だったが、運命はそれを許さなかった。