そんな低迷期、彼女の心を支えたのは、ステージで見つめた大先輩たちの背中だった。
「越路吹雪さんや岸洋子さんの舞台を拝見して、衝撃を受けたんです。『私もあんなふうに、長く歌い続けられる歌手になりたい』と」
会社を立て直すプロジェクトに指名
歌番組が少なくなっても、地方のクラブやキャバレーなどで歌い続ける仕事は続く。メガヒットの『こまっちゃうナ』の印象が強くて、大人の歌ではお客がしらけることもあったという。
「いつまでも『こまっちゃうナ』だけでは本当に私もみんなも困っちゃうんですよ(笑)」
転機は1972年に訪れる。レコード会社をフジサンケイグループのキャニオン・レコード(現ポニーキャニオン)に移籍した翌年。当時のキャニオンレコードは経営不振の“勝負どころ”で、社運をかけたプロジェクトとして「山本リンダ」の名前が挙がったという。
「(1970年の)大阪万博の会場で、出演する歌謡ショーの呼び込みをしたことがあったんですね。大雨が降っていたのでお客様の入りが悪くて、拡声器を使って雨に濡れつつも一生懸命に『何時からですー、見に来てくださいー』って。
その姿をフジテレビの方が偶然見ていてくれたんです。その縁がきっかけで……、山本リンダでヒットを飛ばして、必ず会社を立て直す。そんな大事な役目に選んでいただきました」
リンダさんの再起には文字どおり「社運」がかかっていた。そこで白羽の矢が立ったのが、作詞家の阿久悠氏・作曲家の都倉俊一氏。かくして伝説の『どうにもとまらない』が生まれる。
「曲調はこれまで日本にはなかったようなリズムで、歌詞も外国映画のワンシーンみたいなカッコいい内容で……斬新で素晴らしい歌だ! 新しい私に生まれ変われる歌だ! 待っていたとおりの歌だ! と涙があふれてきました」
レコード発売日の当日に、フジテレビ系『夜のヒットスタジオ』に出演が決まった。加えてその日の産経新聞には、それらを告知する全面広告が打たれた。フジサンケイグループがまさに一丸となって押し出したというわけだ。
結果はご存じのとおり。山本リンダの「第2次ブーム」が巻き起こることになる。
「キャンペーンで広島に行ったとき、デパートの8階から1階まで、サインを求めるお客様が並んでくださっていて。ありがたくてありがたくて、100人目を超えたよ!との声を聞いて、サインに涙がポタッと落ちてしまったのを今でも覚えています」

















