目次
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ー 生き残ったのは2人だけ…前を向くしかない
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ー 震災3年後、バッティングセンターがついに完成!
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ー 今はすべて「途中の出来事」
千葉清英さん 株式会社千葉一商事代表取締役社長。「気仙沼フェニックス・バッティングセンター」運営者。1969年、東京都生まれ。1998年に結婚し、妻の実家がある宮城県気仙沼市に移住。2003年、(株)千葉一商事に入社し、2009年に代表取締役就任。2011年3月11日に発生した東日本大震災で7人の家族を亡くす。2014年に「気仙沼フェニックス・バッティングセンター」をオープン。東日本大震災の体験、防災の大切さを伝えるため、講演活動などを行っている。
千葉清英さん 株式会社千葉一商事代表取締役社長。「気仙沼フェニックス・バッティングセンター」運営者。1969年、東京都生まれ。1998年に結婚し、妻の実家がある宮城県気仙沼市に移住。2003年、(株)千葉一商事に入社し、2009年に代表取締役就任。2011年3月11日に発生した東日本大震災で7人の家族を亡くす。2014年に「気仙沼フェニックス・バッティングセンター」をオープン。東日本大震災の体験、防災の大切さを伝えるため、講演活動などを行っている。
【写真】被災地に希望を灯した千葉さんのバッティングセンター
千葉清英さん 株式会社千葉一商事代表取締役社長。「気仙沼フェニックス・バッティングセンター」運営者。1969年、東京都生まれ。1998年に結婚し、妻の実家がある宮城県気仙沼市に移住。2003年、(株)千葉一商事に入社し、2009年に代表取締役就任。2011年3月11日に発生した東日本大震災で7人の家族を亡くす。2014年に「気仙沼フェニックス・バッティングセンター」をオープン。東日本大震災の体験、防災の大切さを伝えるため、講演活動などを行っている。
千葉清英さん 株式会社千葉一商事代表取締役社長。「気仙沼フェニックス・バッティングセンター」運営者。1969年、東京都生まれ。1998年に結婚し、妻の実家がある宮城県気仙沼市に移住。2003年、(株)千葉一商事に入社し、2009年に代表取締役就任。2011年3月11日に発生した東日本大震災で7人の家族を亡くす。2014年に「気仙沼フェニックス・バッティングセンター」をオープン。東日本大震災の体験、防災の大切さを伝えるため、講演活動などを行っている。
気仙沼フェニックス・バッティングセンターの前での千葉清英さん
気仙沼フェニックス・バッティングセンターの前での千葉清英さん
千葉清英さん 株式会社千葉一商事代表取締役社長。「気仙沼フェニックス・バッティングセンター」運営者。1969年、東京都生まれ。1998年に結婚し、妻の実家がある宮城県気仙沼市に移住。2003年、(株)千葉一商事に入社し、2009年に代表取締役就任。2011年3月11日に発生した東日本大震災で7人の家族を亡くす。2014年に「気仙沼フェニックス・バッティングセンター」をオープン。東日本大震災の体験、防災の大切さを伝えるため、講演活動などを行っている。
千葉清英さん 株式会社千葉一商事代表取締役社長。「気仙沼フェニックス・バッティングセンター」運営者。1969年、東京都生まれ。1998年に結婚し、妻の実家がある宮城県気仙沼市に移住。2003年、(株)千葉一商事に入社し、2009年に代表取締役就任。2011年3月11日に発生した東日本大震災で7人の家族を亡くす。2014年に「気仙沼フェニックス・バッティングセンター」をオープン。東日本大震災の体験、防災の大切さを伝えるため、講演活動などを行っている。
『夜明けのバッティングセンター 3.11で7人の家族を失った息子と私の15年』千葉清英・著、藤澤志穂子・協力 草思社 税込み1980円 震災の記録であると同時に、失意の底から「生き直す」ことを選んだ父と息子の物語。※画像をクリックするとAmazonの商品ページにジャンプします
『夜明けのバッティングセンター 3.11で7人の家族を失った息子と私の15年』千葉清英・著、藤澤志穂子・協力 草思社 税込み1980円 震災の記録であると同時に、失意の底から「生き直す」ことを選んだ父と息子の物語。※画像をクリックするとAmazonの商品ページにジャンプします
千葉清英さんが造ったバッティングセンターは子どもたちや仮設住宅に住む人たちの憩いの場に
千葉清英さんが造ったバッティングセンターは子どもたちや仮設住宅に住む人たちの憩いの場に

「震災の苦しさを乗り越えたのかどうかは、自分ではわかりません。多分、死ぬまで忘れることはないので結局、今は通過点でしかないんです。だから、前向きに生きていきたいという気持ちだけです」

 そう話す千葉清英さんは、子どものころから野球少年。高校生のときはエースとして、全国高校野球・西東京大会のベスト4に残ったこともある。

 卒業後に就職した酒類の卸会社で、のちに妻となる美奈子さんと出会う。やがて美奈子さんの実家のある宮城県気仙沼市に移住。義父の営む乳業店、千葉一商事の跡取りとして婿入りする。家の外では従業員を抱える経営者、家の中では家族を支える家長として、忙しくも充実した日々を送っていた。2011年3月11日、あの震災が起こるまでは─。

生き残ったのは2人だけ…前を向くしかない

「あの日、大きな揺れがおさまったあと、私は店の戸締まりをするため、義両親、妻と2人の娘、義妹とその息子の7人に、2台の車で先に逃げてもらいました。私も逃げようとした矢先に、濁流に流され、津波にのみ込まれてしまった。ただ、どうにか橋の欄干にひっかかって生き延びた。学校に行っていた息子の瑛太も無事でした。結局、生き残ったのは私と瑛太だけでした」(千葉さん、以下同)

 亡くなった家族7人が見つかったのは、震災から3週間後。葬儀、四十九日を終えたあと、清英さんは乳業店を再開した。

「立ち止まると、いやなことばかり考えてしまうので、とにかく動いていないと気が休まらなかった。私の場合、家族は失ったけれど、従業員が全員生きていてくれたので、彼らの生活を守らないといけないという強い思いがありました。それから息子の存在。この2つが何とか私を前に向かせました

 瑛太くんは当時、小学4年生。気仙沼のリトルリーグで野球をしていたが、震災でメンバーがバラバラに。小学校の野球チームに入るが、練習する場所もなく、保護者も生活の立て直しに追われて指導できない。清英さんは車で1時間半かけて、瑛太くんを岩手県のバッティングセンターまで連れていっていた。

 ある日のバッティングセンターからの帰り道、瑛太くんがふと口にしたひと言に、清英さんは直感的に希望を感じた。

「自分はバッティングセンターに連れてきてもらえるけれど、周りの友達は連れてきてもらえない。『みんなが練習できるバッティングセンターが近くにあればいいのに、造ってよ』って言ったんです。私はそれを聞いて、“これだ!”って。よし造ってやろう、と約束しました