震災3年後、バッティングセンターがついに完成!

 しかし、その後は日々の仕事に追われて、気がつけば忘却のかなた。ある日、瑛太くんから「いつ造ってくれるの?」と言われて、「この約束を破ったら一生後悔する」とスイッチが入った。とはいえ、バッティングセンターはそう簡単に造れるものではない。土地の造成から建物の建築、マシン類をそろえると、ざっと1億円は必要。

「いちばんの課題は資金集めでしたが、クラウドファンディングには頼りたくなかった。私は会社の経営者でもあるので、会社を立て直しながら、もう一方で、バッティングセンターを造ろう、二兎追うものは二兎得てやろうと考えました」

 そこからは無我夢中。とにかく息子との約束を守りたい。それだけでなく、亡き家族の望みを叶えたいという思いもあった。

「震災の翌年は、会社の50周年だったんです。そこで妻と記念にオリジナル商品を作りたいよね、と話していました。先代の義父もまた、50周年にはお客様に感謝のお礼をしたいと言っていました。

 そういう話があったなかで、震災から1年後、気仙沼漁港の近くに復興商店街ができて、そこで『飲むヨーグルト』を売ることになった。それをオリジナル商品『希望ののむヨーグルト』として販売しよう。そして、その利益の50円は、バッティングセンターに投入することにしたのです」

気仙沼フェニックス・バッティングセンターの前での千葉清英さん
気仙沼フェニックス・バッティングセンターの前での千葉清英さん
【写真】被災地に希望を灯した千葉さんのバッティングセンター

 50円×200万本=1億円という試算をした清英さんは、資金の1億円を目指して、全国の講演会場や物産展で営業した。

「1人1本飲んでくれたら楽勝だ、なんて勝手に思っていたけれど、そう簡単ではありませんよね。いつも売れ行き良好というわけではなく、天候が悪いと人足が減り、そのまま商品を送り返すこともありました」

 そんなとき、たまたま気仙沼で塩づくりが再開した。観光協会の会長に頼んで分けてもらった塩をもとに誕生した商品が、塩サイダー「海の男と潮騒ダー」だ。

「今まで取引のなかった飲食店や道の駅などで販売してもらえるようになり、利益が増えました。加えて震災支援募金や自己資金、銀行からの借り入れで、資金面はどうにかクリアできるかなと。また、義父の古い友人がゴルフ場の跡地を貸してくれることになり、さらに埼玉県のゴルフ練習場を経営している知人がネットを提供してくれて。マシンや什器を譲ってくださる方がいたりと、バッティングセンターの建設が現実味を帯びてきました」

 そして震災から3年あまりたった2014年、ついに「気仙沼フェニックス・バッティングセンター」が完成。喜んだのは野球少年だけではなかった。

「保護者からは、『子どもたちの遊び場をつくってくれてありがとう』と喜ばれました。また、目の前の仮設住宅に住んでいた人たちも、ここで気晴らしをしてもらえたようです。経営者仲間からも、『おまえが動いてくれたから、俺も前に進むことができた』と感謝されました」