中学卒業後は理容室で住み込みで働く
中学を卒業すると、定時制高校に通いながら理容室で住み込みで働き始めた。美容師ではなく理容師の道を選んだのは、「もし戦争になったら、誰もパーマをかける余裕なんてなくなる。だけど、理容なら戦争になっても絶対になくならない」という八千代さんの信念によるもの。
現実的かつワンマン。「そのイズムは受け継がれているのでは?」と水を向けると、重厚感のあるクラシックチェアに背中を預け、鮮やかな紺碧の装いに身を包んだたかのは、「そうかもね」と含み笑いを浮かべた。
「定時制を卒業すると、その理容室で1年、お礼奉公してね。いじめられもしたけど、たしかに手に職があれば困らない。上り詰めていく面白さを知った」
群馬県の理容コンクールで優勝すると、さらなる高みを求めて20歳のとき、高度経済成長真っただ中の東京へ。田舎とは何もかもが違う世界を目の当たりにして、「ただ散髪するだけの時代ではない」ことを悟った。美容師の免許を取得することを決意し、昼は理髪店で働き、夜は居酒屋で皿洗いのバイト。睡眠時間は約2時間。寸暇を惜しんで、自らの腕を磨くことだけを考えた。
このとき、たかのは一冊の本と出合う。日本マクドナルドの創業者・藤田田氏の『ユダヤの商法』である。
「『商売をやるなら女と口(食べ物)を狙え。男は商売にならない』といったことが書かれていた。男性のお客様に整髪料をおつけしますか?と聞いても、たいがい『いらない』と言う。ところが女性はそうじゃない。むしろ、3000円と1万円の化粧品があると後者を買っていく。男と女では美に対する意識がまるで違う。女性は商品を買っているんじゃなくて、『きれいになる』という夢を買っているのよ」
日本の美容師の開祖である山野愛子氏は、関東大震災が起きた際、失意の中で歩いている女性たちががれきの中から鏡の破片を見つけ、髪を直している姿を見て、「女は生きるか死ぬかのときでもきれいでいたい」ことに気づき、未開の地を開拓していった。たかのもまた、時代を読む才覚が突出していた。そして、転んでもタダでは起きないという点も。
「寝る間も惜しんで働いていたからニキビがひどかった。当時は、外資系の化粧品が続々と日本の市場に参入していたから、いろいろなクリームを試していてね。あるとき、縁あって外資系企業からビューティーアドバイザーにならないかと誘われた」
働きぶりが認められ、花形のプロモーション課に配属されると、セールストークからメイク方法まで教育された。外資系企業ということもあって、女性の意見が通りやすいことも、負けん気の強いたかのと水が合った。ミニスカートに付けまつげという当時の先端ファッションに身を包むと、165センチのたかのは街中でも目立った。「モデルをやりませんか?」。毎日のように声をかけられた。
「まだ群馬弁が抜けてないのに、きれいになるだけでこんなに世の中の扱いが違うんだって。それが、よ~くわかった(笑)」
不運と不幸は違う。自らの意志と行動力次第で不幸にならないことを、たかのは証明していく。


















