エステを日本へ持ち込むきっかけとなった渡仏
それまで美容は、化粧品を重ねていく“足し算”が当たり前だったが、肌から不要な老廃物を落として、肌本来の美しさを取り戻す「エステ」なる“引き算”があるらしい─。24歳のとき、たかのは渡仏を決意する。気になったものは、自ら体験する。それが彼女の信条だ。
「付き合っていた男性といろいろあって、精神的にも物理的にも距離を置きたかったということもあってね」
男のだらしなさは、子どものころからよく知っている。
「失恋じゃないわよ。こっちから『捨てた』と思わないといけない。終わりをきちんと自分で終わらせる。これが大事」
主語を自分にするように。そう言って、たかのはバニラの香りが立つ、ハワイ産のコーヒーを優雅にスプーンでかき回す。
「自分に軸がないから未練が生まれる。バスと男は追いかけない。次が来るまでの時間は、自分を磨くために使いなさい。それで私はフランスに行ったのよ」
後を追うように、筆者もひと口コーヒーを含んだ。コーヒーなのに、甘い香りが鼻孔を抜ける。なるほど、苦みは自分次第ということか。
「渡仏中はエステサロンで下働きしていたんだけど、汚れを吸引する美顔器に目をつけた。ニキビに悩まされていた私は、これを日本に持って帰ったら、同じ症状で悩んでいる女性たちを喜ばせることができると思ったのね」
当時の日本は、まだエステが富裕層にしか知られていない時代。加えて、エステを開業する資金などない。そこで、たかのは帰国後1年半かけて美顔器を自ら改良し、「美器」をもじって“ヴィッキー”と名づけ、商品化した。コーセー化粧品が食いつくと、それを機に飛ぶ鳥を落とす勢いで売れ始めた。自ら広告塔となり、テレビにも顔を出すようになると、「たかの友梨」と名を変え、26歳にして成功の階段を上り始める。だが、どこか人ごとだったと打ち明ける。
「男の人の背中越しに世の中を見る……30歳までは、そんなふうに生きることにちょっと憧れていた。でも、好きになる人がことごとく妻子持ち(笑)。それを断ち切るために、28歳のときはアメリカに半年ほど滞在して、脱毛の国際ライセンスを取得した。だけど、日本に戻ると自分がやりたいエステができていないという現実がある。このときがいちばん迷っていたと思う」
「たかの友梨ビューティクリニック」第1号店
30歳の直前、腹膜炎で生死の境をさまよった。生きているといううれしさより、「儲かった命という気がした」と言う。そして、たかのは決意する。
「自分がやりたいことをやろう」
9か月後、東京・新大久保のビルの一室に、記念すべき「たかの友梨ビューティクリニック」第1号店を構えた。現在、代々木に自社ビルを持つまでに成長したたかののエステティックの曙光は、都会の片隅でひっそりとだが、確かな輝度を誇っていた。
とはいえ、エステの存在が十分に認知されていない時代である。「エステ……? 食べ物ですか?」なんて会話は当たり前。そこで、たかのは生活情報誌に「ニキビの方、集まれ! タダで治してさしあげます!」という破格の広告を打った。採算度外視。
一にも二にも認知されることを重視した結果、1年後には新大久保で最も繁盛する店として周知の存在にまで駆け上がった。たかのは言う、「目立つことをしないといけない」。当たり前のように聞こえるが、この当たり前を当たり前にできるからこそ、「たかの友梨ビューティクリニック」は美の帝国として、青山、上野と次々に支店を展開するに至る。
この間、たかのは縁がないものと思っていた結婚をする。夫は4つ年下で、美容師の免許を持ち、結婚後、鍼灸師の資格を取得するなど、エステティシャン教育を全面的にサポートする良き理解者だった。たかのもまた、良き妻であろうと髪ふり乱して尽くそうとした。
だが、実業家として成功していく彼女に対し少なからず嫉妬心があった夫は、衝突も意に介さず自らの主張をぶつけてくる。余裕がなくなった彼女は、腹膜炎が再発し、1か月間入院することになった。
「退院後、富士山麓に13日間こもって精神修行をする経営者向けの塾である『地獄の特訓塾』に参加した。『女性には無理』と渋る担当者に頼み込んで参加してね(笑)」
2人1組になって、深夜、険しい山道を懐中電灯ひとつで40キロ歩いた。「声が小さい!」と何度も怒鳴られた。令和の今なら考えられない、コンプラなき原野で自分と向き合うと、「天命に目覚めた」と言う。
「それまでは女だから出しゃばっちゃいけないと少しは思っていたんだけど、ストッパーが外れたね」
しばらくして離婚した。
「晴れた日に虹は見られないでしょ? 雨も必要なのよ」
時折、背筋がゾクッとするようなことを、たかのは美しく言い放つ。


















