自分のためではなく他人のために生きる

 そんな光茂少年に転機が訪れたのは小学4年生のとき。担任が授業で見せてくれたビデオに、アフリカ難民の様子が映し出されていたのだ。

「衝撃でしたね、地球の裏側にはこれほど苦しんでいる人がいるってことが。そのとき、“あっ、この人たちのために自分の命が少しでも役立てられたらいいな”と思えたんです。自分が生きる意味はわからないけど、他者であるアフリカの人のために生きることならばできるなって」

 中学、高校生になっても相変わらず生きづらさを抱えていたが、アフリカの人たちのことを思えば、何とか生きていられた。

 難民のことを調べていくうちに、当時、国連難民高等弁務官だった緒方貞子さんを知る。都内の国際連合大学で緒方さんの講演があると知るや、上京し聴講しに行った。感動し、その後も講演があると行き、質問したりしているうちに覚えられ、「あなたみたいな思いがある子は好きよ」と可愛がられたという。

 あるとき、人の役に立てる仕事がしたいが、どうしたらいいかと聞いたら緒方さんはこう言った。

「行政に関わったり、もっと市民に近い仕事やボランティアを行うなど、人にはそれぞれ役目があるのよ。あなたはまだ若いんだから、いろんな世界に行ってみたらどうなの。それから決めてもいいんじゃないかしら

 '94年、慶應義塾大学法学部に入学すると、外交官を目指した。1年生のときから国家公務員試験の予備校に通った。ただ、お金が足りない。父親が銀行を辞めたあと転職がうまくいかず、母親がパートをして家計を支えていたからだ。奨学金や学費免除を受けても十分ではなかった。ほぼ毎日、施設の子どもたちに勉強を教えるボランティアにも取り組んでいたので、かなり忙しかった。

14歳、生きているということに疑問を持ち、悩んでいたころの山中光茂さん
14歳、生きているということに疑問を持ち、悩んでいたころの山中光茂さん
【写真】年間2000人超の患者を診察、山中さんの『しろひげ在宅診療所』

 そんなとき、当時バイトをしていた渋谷の飲食店で、キャバクラ嬢やホステスをスカウトする仕事があることを教えてくれる人がいた。これなら空き時間でできる……。

この仕事、スカウトして終わりではないんです。彼女たちが新しい職場になじんでいるかを時々ヒアリングして、もし悩みを抱えていたら、相談に乗って解決する。丁寧に対応していたら、女の子たちからすごく信頼されて、それが口コミで広がったんです。違うお店に移りたいときにも、僕に相談に来たりしていましたね」

 勉強のかいあって、外務一種公務員試験に合格し、あとは面接だけというところまでこぎつけた。が、アフリカやアジアへの熱意が裏目に出る。面接官はこう言った。

「日本の国益はそんなところにない。アメリカやヨーロッパ、ロシアにあるんだ」

 その言葉にカチンときた山中さんは外務省への志望を白紙に。急きょ、医師を目指そうと決意する。

「医者になれば、多くの人を救える。それでアフリカの人たちの役に立つんだ」

 '98年、群馬大学医学部に編入学。2003年3月に医師免許を取り、しばらく病院で研修を受けた後、アフリカ・ケニアに向かった。現地の医療機関で研鑽を積み、NPO法人「少年ケニヤの友」の医療担当専門員として、離島医療に携わった。

 島に行くと、HIV(エイズ)感染率42%という蔓延状態。若年層の売春が常態化し、子どもたちの半分以上が学校に行けず、労働力として駆り出されている状況だった。

 山中さんは島の巡回診療をしながら、HIV検査所をつくり、予防教育を展開。さらにHIVで夫を亡くした女性向けに「ウィドウの会」を設立。孤児とマッチングする機会を設けた。一方で地域で活躍できる看護師の養成にも関わった。