「市民の手に政治を」の思いで政治家へ

 ケニアには2年滞在したが、日本にも時折帰国していた。そのときに顔を出していたのが、政治家やビジネスリーダーなどを養成する松下政経塾である。「少数者の痛みに配慮した政治を行いたい」という思いがあったのだ。

 当時、民主党代議士だった岡田克也、三日月大造(現・滋賀県知事)両氏がケニアを視察した際、案内した縁もあり、医師の傍ら、'06年から民主党三重県連事務局で働くことになる。翌'07年には三重県議会議員に。さらに2年後の'09年には松阪市長選に出馬する。

「松阪市長選は30年ぐらい、無投票か、ほとんどの政党が1人の候補を支援する無風選挙だったんです。こんな市政では市民の声が反映されるわけがない。政治を市民の手に取り戻そうと出馬したんです。でも相手の現職候補は自民党から共産党まで支援していて、自民党の石破茂さんや小泉進次郎さん、岡田(克也)さんも応援に来ていました。ですからマスコミも“山中惨敗確実”という予想でした」

 ところがフタを開けてみたら、選挙戦後半になるにつれ、山中人気が沸騰し、当選。33歳、当時の最年少市長となった。

 まず着手したのは、行政が地域住民から声を聞く組織づくり。シンポジウムシステムというが、これを浸透させた。また20年赤字だった競輪事業や松阪市民病院を黒字化するなど、財政再建を成し遂げた。

2009年、33歳で最年少市長として初登庁したときの山中光茂さん
2009年、33歳で最年少市長として初登庁したときの山中光茂さん
【写真】年間2000人超の患者を診察、山中さんの『しろひげ在宅診療所』

 このころ、東急不動産社長だった金指潔さん(現・東急不動産ホールディングス取締役)は山中さんに会っている。松下政経塾講師の福岡政行さん(当時、白鴎大学教授)と友人で、面白い市長がいると聞いて会いに行ったのだ。

「ひげを生やして、清潔な風体ではなかったけれど、ケニアの写真をたくさん持ってきて、平和のためとか、人のためとか、少しくすぐったくなるような話を3時間近く熱く語るんです。今どき珍しい青年だなと、いたく感激したのを覚えています」

 東日本大震災が起きると、山中さんは全国青年市長会を率いて支援に回った。金指さんも一緒に行き、彼の行動を見て思った。

「彼は天才的に頭がいい。ただ、頭だけで考えようとしない。常に現場を踏み、見て、触れてじかに感じたことをもとに問題の本質をつかんでいくんです

 2期目の当選を果たすが、市議会が動かなくなる。市民の声を聞く政治と、オール野党化した市議会の思惑が対立したのだ。議会の反対で予算が通らない。「あなたが市長であるうちは反対し続ける」と言われる始末。

「自分の命を人の幸せのために使おうと、現場で汗を流そうとしているのに、それができない。だったら市長を辞めるしかないと」

 '15年、医師として活動を再開した。しかも今度は在宅診療医として。

「市長のとき、医療や介護が必要な状態になっても住み慣れた地域で過ごすことができる地域包括ケアの実現に取り組んだんです。でも在宅医療を担う医師・看護師を含め、支える体制がまったく整っていなかった。それでは絵に描いた餅で終わると思って、この分野に懸けてみようと思ったんです」