実際のエピソードを下敷きにした作品も

 一色さんは学生時代から美術史を深く学んでおり、フランツ・マルクら〈青騎士〉というドイツ近代美術が記憶に残っていた。

「『戦争中に動物の絵を、しかもこんなふうに描くなんて』という驚きが、心に残っていたんです。次にどんな絵画を出そうかと考える中で、マルクの青い馬の絵がいいなと思いました。実はこの絵は現在、所在不明になっています。だからこそ、フィクションで描くことの可能性を感じました」

 現実に失われた絵が、この物語の中に息づいている。

「一方で、同時期に大ドイツ展という国威発揚のための展覧会も開催されていたけれど、皮肉にもナチスのねらいとは裏腹に、退廃芸術展にばかり人が集まったという史実があります。そのこともとても面白いと思いました」

 3編目の「富士山のハンマープライス」には、ゴッホの〈医師ガシェの肖像〉を史上最高額で落札する大企業の元敏腕経営者・油谷が登場する。この話は、1990年に大昭和製紙の齋藤了英氏が、その絵を実際に落札した出来事に着想を得た。

「齋藤氏が『ゴッホの絵を棺桶に入れる』という発言で当時、大炎上したことを知り、バブル時代を背景に、〈医師ガシェの肖像〉にまつわる物語を書いてみたいと思いました。齋藤氏は静岡出身で、私も今、静岡に住んでいるので、図書館に行くと資料がたくさんあるんです」

 資料を読み込みつつ、バブル期の空気感をつかむために、同時代の経営者たちのインタビュー映像などを見たという。

「日本が海外の美術品をたくさん買っていた時代に、当時の経営者の方たちはバブルの終焉をどこまで予測していたのかが気になっていたんです。いろいろな経営者の方の考えを参考に、油谷というキャラクターを作っていきました」

 物語の中盤には、息子との関係に悩む女性スタッフに対して、油谷が次のように話す場面がある。《期待しない。受け流す。慌てない。そして感謝。人とうまくやる四原則だ。騙されたと思ってあんたも実践しなさい》

「この四原則は、私自身がいろいろと悩んでいた時期に自分でたどり着いた答えで、困ったときに心の中で唱えるようにしています」