テレビ局とタッグ! 水族館で初の「広報担当」
入社4年目で営業部に異動。従来、営業部が集客のために行っていた学校回りに疑問を感じ、スナメリのようにメディアが食いつきそうな映像を撮ってはテレビ局に持ち込むことを繰り返した。するとタイミング良く、'83年、ラッコが鳥羽水族館にやってくる。
日本の水族館でラッコの飼育を始めたのは二番手だったが、番組が始まって間もない『わくわく動物ランド』(TBS系、以下『わくわく』)のディレクター・恒川省三さんに、こう持ちかけた。
「うちのラッコだけを放送するのなら、アラスカからうちに来るところを1週間独占取材してもらっていいですよ」
恒川さんは、ずっと見ていても飽きないラッコにスター性を感じ、中村さんの提案に乗った。密着映像が流れると、ラッコ人気に火がつき、運のいいことに、翌'84年2月、国内初となるラッコの赤ちゃん「チャチャ」が誕生、ラッコブームが到来する。来館者は180万人を数えた。
ラッコブームを受けて中村さんは、以前から温めていた企画室(現在は企画広報室)を設立。“広報”の窓口を設けたのは、水族館では初めての試みだった。
『わくわく』の恒川さんは、こう振り返る。
「当時は、民放が水族館に取材をお願いすると、すごく警戒されました。水族館の本分は飼育や種の保存なのに何をされるかわからないと思ったのでしょう。その点、中村さんはテレビの影響力をわかっていて、鳥羽水族館の名前を全国に広めていきたいという熱意を感じました。取材をお願いすると『できる限りのことは』という言葉をいただきました」
「当時の企画室は不夜城だった」と明かすのは、現・鳥羽水族館館長の若井嘉人さん(66)。
「ずっと企画室の電気はついていて、すごく忙しそうでした。昼間は水族館の仕事をして、夕方になると鳥羽青年会議所の会合に行く。夜に水族館に戻ってきたら、朝まで仕事されていましたね」
中村さんによると、青年会議所では、地域全体で観光を盛り上げるための活動。水族館に戻ると、広報のために使う写真のポジチェックや、編集長をしていた鳥羽水族館発行の機関誌『TOBA SUPER AQUARIUM』の編集、原稿執筆に追われていたという。自宅には帰らずソファで寝ることも多かった。



















