脱・子ども向け! 大人が喜ぶ水族館へ大改革
やがて、企画力や実行力が評価され、鳥羽水族館の新館建設のディレクターを任される。'90年のオープンに備え、'85年に、当時は部下であった若井さんとアメリカに出張。めぼしい水族館を10数館、数週間かけて視察した。
日本の水族館は当時、小規模の水槽で魚などを展示することが多かったが、アメリカの水族館は違った。
「とにかくダイナミックでしたね。水槽の一つひとつが大きくて、リアルな生息環境を取り込んだ水槽があった。淡水の水槽からジャングルの木が外にこぼれ出てくるような仕掛け。当時の日本では考えられないアシカやアザラシが自由に泳ぐ屋外大水槽、トンネル水槽もありました。中村さんもかなりインスパイアされたと思います」(若井さん)
中村さんが考えた新水族館のイメージは、「デートに使える水族館」。
それまでの水族館は教育的役割を担う施設でもあると信じられ、子どもを意識する傾向が強かったのだ。
「でも人口比率を僕なりに分析すると、純粋に子どもといえるのは1割程度。僕の定義では10代でも『鬼滅の刃』を見たい!と言えば大人。怖い!と言えば子どものくくり。中学生だってデートするでしょ。そう考えると大人が9割だと。だから、大人の女性をターゲットにしようと思ったんです、男は女性についていくからね」
中村さんは大学時代、「女性購買心理」をテーマに卒業論文を書き、女性の購買力の強さを熟知していたのだ。
新水族館のコンセプトは、従来の水族館のイメージを超える“超水族館”とした。
まず館のシンボルとなる巨大水槽。自然の生態系をそのまま再現した「環境展示」だ。その「コーラルリーフダイビング水槽」で、珊瑚礁の海に約250種2万匹の大小の魚が泳ぐ様は圧巻と話題になった。そのほかにもアシカやアザラシなどが棲む「海獣の王国ゾーン」、世界初のジュゴンの繁殖ができる大水槽……。
《海より広く、海より深く、海より碧い海がある》
中村さんがPR用に考えたこのコピーは、まさに新鳥羽水族館を言い表していた。
元副館長の浅野四郎さんいわく、フランスのルーブル美術館が観覧順路をつくらないのに倣った結果、来館者が一か所にかたまらない効果も生み出したという。
新鳥羽水族館は評判を呼び、ラッコブームで記録した180万人をしのぐ280万人もの来館者数を記録した。
「“水塊”のある水族館をつくりたい!」
入社から20年、中村さんは副館長に抜擢される。順風満帆と思われたが、水族館上層部との間に意見の食い違いが生じた。象徴的だったのは、お金の使い方。とある番組で鳥羽水族館をスタジオにして放送をしたときのことである。取材協力費の一部を水族館が負担した。
「それに500万円かかって、咎められたんだけど、同じ時間で番組の枠を買ったら、2億円かかるんですよ。それを理解しない人がいるんです」
元来、言うべきことを黙っていられないタイプの中村さんは立ち位置を見失う。
「先輩に忠告されて我慢した期間もあったんですが、自分が自分でなくなる感じがして、自信がなくなってしまった。で、元のスタイルに戻したら衝突することが増えてね。だから敵が多いんですよ」
結局、居づらくなり、'02年、鳥羽水族館を退職した。46歳だった。
「これからは水族館とは関係のない仕事をしよう」
そう決心した直後、閉館と移設が決まった江の島水族館の「展示の監修」とオープン後の「展示監督」をしてほしいと依頼される。引き受けるか否か悩みつつ、数か月、他業種のプロモーションの仕事を手がけるがしっくりこず、江の島水族館のプロデュースを引き受けることにした。
実は、ここで実現させたい水槽のアイデアがあった。沖縄・美ら海水族館で見た「黒潮の海大水槽」だ。ジンベエザメやマンタが泳ぐ水深10メートルの大水槽。
「視界いっぱいに広がる青い水の塊を前にすると、何を見るでもなく、ただボーッと水の塊を眺めてたたずんでしまう。海の広がりや奥行き、ブルーの透明感、それから心地よい浮遊感と清涼感、そして水中感を閉じ込めた水槽。僕はこのとき“水塊”という言葉が思い浮かんだんです。水塊のある水族館をつくってみたいなって」
それが「相模湾大水槽」として実現。イワシが形を変えて群れをなす、江の島の水中を再現した展示になった。入館者数は元の江の島水族館時代の6倍、180万人を記録した。
この仕事に取り組む中で、「展示監修」、つまり「水族館プロデューサー」を生業としていこうと思うようになる。
新江ノ島水族館では引き続き展示監督に携わっていたが、編集の仕事をする妻の貴子さんから、のちに『決定版!! 全国水族館ガイド』(SBクリエイティブ)となる本の企画を打診される。
「日本の水族館の現状を自分の目で見て回るのは、プロデューサーの仕事をするための資産にきっとなる」
中村さんはそう考え、全国の水族館の取材を開始。傍らには貴子さんがいた。
「私が当時、編集の仕事をしていたこともあるのですが、取材先の水族館では、私が編集者、元さんはカメラマン、みたいな体で、目立たないように振る舞っていました。狭い業界なので、関係者に会いたくなかったんでしょうね」(貴子さん、以下同)
ただ、この“カメラマン”、なかなか諦めの悪いタイプだったみたいで、
「もう次の水族館のアポがあるから終わって、と言っているのに、こだわりが強くて、“もうちょっと”とか言うので困りましたね(笑)」



















