限界を迎えて、スタジオから脱走
やがて『ダンシング・ヒーロー』がチャート入りすると、どんどん多忙になっていく。最初はうれしくて興奮したが、次第に新たなプレッシャーが立ちはだかってきた。
「次もヒットさせなければ一発屋と言われてしまう。社長は私のために新たな会社をつくってデビューから二人三脚でやってきた。その後、スタッフが増え、ファンクラブもできて。ようやく売れたとき、世間知らずな私はもっと人間的に成長したいと、留学を希望したんですが、『行けるわけない』と社長にいなされました(笑)。自分と向き合う時間もなく、突っ走るしかなかった」
レコーディングにライブツアー、さらにはドラマの仕事。当時、アイドルはドラマの主演を務め、その主題歌を歌うのが常だった。次から次へと仕事が入り、必死でこなす日々に、「自然児」である荻野目はだんだん息がつまっていった。
限界を超えたのか、ある日、彼女は脱走事件を起こしてしまう。
「あのころはドラマもレコーディングも、仕事がすべてスタジオだったんです。しかも、いつも大人に囲まれている。息が詰まるような気分になって、こっそり抜け出し、わーっと外を走りました。やっと1人になれて気持ちがよかった。結局、そのまま家に帰っちゃった。翌日からちゃんと仕事をしましたけど(笑)」
河口湖畔のスタジオでレコーディングするはずが、荻野目がリラックスしすぎて進まなかったこともあった。久しぶりに「自然児」の血が騒いだようだ。
一方で、徐々に彼女の音楽性に注目が集まっていったと証言するのは、作詞家の売野雅勇さんだ。売野さんは彼女の10枚目のシングル『六本木純情派』など多数の楽曲を担当している。
「当時、アイドルはシングルが売れても、アルバムはあまり動かなかった。シングルが20万枚ならアルバムは10万枚以下という感じ。ところが荻野目さんは、シングルが20万なら、アルバムは50万売れる。その音楽性に惹かれるファンが多かったんだと思う」
彼女が19歳のとき、アメリカのブラック・コンテンポラリー界の重鎮であるナラダ・マイケル・ウォルデンをプロデューサーに迎え、アルバム『VERGE OF LOVE』を制作。売野さんはじめ、スタッフらと2週間ほどサンフランシスコに滞在した。
「あの魅力的な声を際立たせる楽曲が並んでいました。初めての海外録音にして、世界の頂点と対峙し、毎秒が勝負という環境に置かれ、彼女自身も張り切っていました。ナラダとのコミュニケーションもスムーズで楽しい日々でした。日本語版と英語版を同時につくったから忙しかったけど、常に音楽に集中していました。長時間一緒にいるのは初めてでしたが、芯が強くて、とことん品がいい女性だと思った」(売野さん)
だってさ、と売野さんは声をひそめた。
「洋子ちゃんって、嫌なところがまったくないんだよ。そんな人間、いる?」
多忙な状態は20代前半まで続き、人心地がついたのは20代半ばになってからだった。友人を通して、彼女は素の自分でいられる時間を取り戻していく。
「もっと人間らしく生きないと、本当にダメになる危機感を覚えたんです。当時、たまたま同い年のヘアメイクさんと仲よくなった。彼女はフェレットを、私は犬を飼っていたので、忙しくてもお互いのペットの面倒を見られるようにルームシェアをすることになったんです」
彼女を通して、会社員、アパレル勤務、飲食店経営者など、さまざまな職業の友人ができた。
「みんなでごはんを食べに行ったり、山登りや花火大会に行ったり、ああ、これが青春だと痛感しました。あの時代がなかったら、私は普通の若者の生活を送れなかったと思う」



















