不動産業に一か八かの大ばくち!

撮影/吉岡竜紀
撮影/吉岡竜紀
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 栄養学校時代の友人の紹介で、弁当店に職を得た。

「本当は外食店相手に物を卸す仕事がしたくてね。味噌汁に入れる牡蠣の粉を販売する仕事に就こうと行ったんだけど、横で弁当屋をやっていて1日2000食から売れるの。人手がなくて、そこを手伝うことになっちゃったの」

 義父・高助さんの死による帰郷に始まり、今度は食品販売会社勤務とは名ばかりの調理の仕事。丹さんが自分の前半生を振り返って言う。

自分の意志じゃなくて、振り回されていたんだね。毎日を生きていくことのほうが先だった

 だが、この弁当店での経験が、丹さんの成功の端緒となる。

 栄養学校時代の知り合いのKさんの誘いで独立を決意。それを機会に、愛媛から母・ウメさんを呼び寄せた。愛媛の家を売った100万円から60万円を出してもらい、埼玉県蕨市に家を購入、その隣にわずか4・5坪の弁当店『東栄給食センター』を開業したのだ。蕨からもほど近い、川口市の鋳物工場で働く人たちをターゲットに、Kさんと共同で設立した事業だった。

 新事業は大当たりした。

「1日600食で、ひと月の収入が60万円。世の中の金全部取ったような気がしたね」

 家1軒が60万円で買えた時代の話である。

 ようやっとつかんだ成功への足がかり。ひと月600食売れるなら、1000食、1500食と事業を成長させていくことだってできたはず。 

 ところが、ここでもこの仕事を辞めてしまうのだ。

「友人のOさんから電話がかかってきて、“丹さん、不動産屋をやらないか?”と。

 どんだけ儲かるのかと聞くと、弁当屋とは桁が違うのよ。

 それで弁当店は弟に任せ、“よし、僕は不動産業に勝負をかける!”と」

 昭和39年、Oさんはじめ、仲間3名と1000万円を出資して渋谷の道玄坂にオフィスを構え、勢い込んで栃木県那須の不動産を商うビジネスを始めた。ところがこれが、一向に売れないのだ……。

「とにかく明けても暮れても人(お客)が来ない。営業担当常務として60人のスタッフを抱え、上野の不忍池周辺の、魚屋さんや肉屋さんなど小売業をしている人に飛び込み営業もしたけれど、1週間かけても1つも売れない。水をかけられたこともあったなあ。それで“これはいよいよ年末ごろには潰れるんかな”と」

 倒産目前、転機は意外なところからやってきた。生まれて初めての上京、すなわち人形町の着物問屋での面接に誘ってくれて、そばとの出会いを作ってくれたI先生が、那須の土地を買ってくれたのだ!

 このころ開催された東京オリンピックとその土地開発が、不動産ブームに火をつけた。I先生のようなサラリーマンにとっても、土地購入が大きな夢になっていたのだ。

「そうだ、サラリーマン相手に売ればいいんだと。そうしたら3か月で61もの契約が取れた!」

 潰れるかもしれなかった丹さんらの不動産会社は、その年の年末には高級レストランを借り切っての大宴会が開けるほどに。

 さらには昭和47年に発表された田中角栄元首相の『日本列島改造論』の後押しもあり、丹さんらの不動産会社は空前の好景気に沸き続ける。大型バーや若者たちが踊るゴーゴークラブ、そば店などの経営にも乗りだし、あのデヴィ夫人が在籍したことでも知られる高級クラブ『コパカパーナ』で連日豪遊したという。

 まさにわが世の春、日の出の勢い。

 だが丹さんは、こうした濡れ手に粟のビジネスから、突如として手を引くことを選択するのだ。