カメラマン一族の村林家

 村林さんが写真の世界に入ったのは、父親の影響が大きい。父・村林忠さんは、広告写真の先駆者だった。戦前は、資生堂に入社し専属カメラマンを務めていたという。

「ミス資生堂」と呼ばれていた母・とみ子さんは、資生堂に勤めていたころ、父・忠さんに見初められ結婚
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「日本写真会会長で資生堂の社長・福原信三さんに認められていました。太平洋戦争が始まると、父にも召集令状がきたのですが、福原社長は父に1枚の書きつけを手渡したんです」

 そこには《右者写真技術卓抜優秀ナルコトヲ証明候也》と書かれていた。おかげで入隊後の配属は、静岡県の海軍航空隊・写真班となり、生き延びた。

 戦後は、フリーで日産自動車の広告写真を一手に引き受けるようになったという。

 村林さんは、渋谷区千駄ヶ谷で3人兄弟の末っ子として生まれ、4歳のとき、大田区大森に転居する。

 初めて父が暗室に入れてくれたのは小学1年のとき。

「黙ってそこで見てろ。好奇心がないやつはダメだ」

 それが父の教えで、写真現像技術との初めての出会いだ。

「僕の性分に合っていたのでしょうね。現像や焼きつけの工程はすぐ覚えました。母親がよく“3兄弟の中で孝夫がいちばんお父さんに似てる”と言っていました。几帳面(きちょうめん)で、味の好みも同じ。酒を飲めないところもね。人と同じことはやりたくないという、ものの考え方も似ていたようですね」

 カメラを持つようになったのは7歳のときだった。

「遠足やスキー旅行などには必ずカメラを持って行きました。カメラは兄貴たちのお古。三男坊の宿命ですね(笑)」

 高校時代は、ラグビー部に所属。小柄で華奢(きゃしゃ)な体格だったために担任の教師から「ラグビーなんてできない」と言われたが、なおさら意地になって入部したらしい。

「僕のしつこい性格の要因は、あのラグビー部時代に培われたと思います。2年でレギュラーになったんだけど、夏の合宿がつらくてね。怖い鬼のようなOBが来て、さんざんしごかれました。社会に出て、どんなにつらいことがあっても、あの合宿に比べれば屁(へ)でもないんです(笑)」

 高校の同級生で同じラグビー部に所属していた寺島生郎さんが当時を語る。

「むら(村林)は、小柄だけど、周りの動きを察知して俊敏に動ける選手でした。ひとつのことにのめり込むとそこに力を注ぐタイプでしたね。ユーモアのセンスもあって、2人でクラス全員にあだ名をつけたこともよく覚えています(笑)」

 高校を卒業すると、東京写真大学(現・東京工芸大学)工学部写真工学科に入学する。

「大学では“最後の写真科学者”といわれた宮本五郎先生に毎日のように質問しに行って、可愛がってもらいました。大学3年までに単位を全部取り終わったので、あと1年は父の仕事を手伝ったり、製版会社や現像所で働いてました」

 そして、卒業後は大手印刷会社に就職するのだが……。

「僕は父の仕事を手伝っていたおかげで、複写でも現像でも誰よりもうまかった。ところが、1年4か月くらいで胃潰瘍(かいよう)になっちゃったんです。病院に行ったらストレス性だと言われた。それで思い切って会社を辞めたんです」

 退社後、父の会社に入り、広告写真などの仕事をするようになった。

 ちなみに、5歳上と2歳上の兄もまた、それぞれ写真の道に進んでいる。

村林一家。(後列左から)次兄、村林さん、長兄。父は写真に一切の妥協がなかった

 長男・詔夫(のりお)さんは、大学卒業後に父の会社でカメラマンとして活躍。次男・眞叉夫(まさお)さんは大学卒業後、平凡出版(現マガジンハウス)に入社し、男性週刊誌『平凡パンチ』やファッション誌『POPEYE』のカメラマンとなった。