父の遺言「あの作品を……」

 3兄弟はみな、写真の世界を教えてくれた父親に尊敬の眼差(まなざ)しを向けていた。

「父が74年の生涯で、写真に関わった60年の間、一貫して追求したのがモノクロ写真の“黒”でした。父は、カラー写真全盛のころにも、仕事でこそカラーフィルムを使っていましたが、自分の作品はモノクロだけ。カラーは撮影だけで、あとは人任せ。モノクロなら、撮影から現像、印画紙への焼きつけまで全部、自分でできるというのが大きな理由だったようです。父の写真の特徴は、独特の黒の調子と逆光の美しさでした」

 そんな父が晩年になって尽力したのが写真修復だった。写真家協会の副会長も務めていたため、いろんなフィルムメーカーに修復について相談していた。しかし、どこからも「経年劣化の修復はできない」と断られていたのだ。

「1965年、資生堂の福原信三社長の回顧展が開かれることになりまして。かつて世話になった父が担当したんですが、オリジナルプリントが消失し、ネガの多くは汚染されていて使えなかった。父は困り果てていました。 それで僕は写真大学に進み、父の助けになればとネガの汚染除去の技術を身につけたんです。福原さんのネガは僕が大学時代に修復しました。それでも、オリジナルプリントの修復はできずにいました」

 そして、1990年。

 クリスマスのころ、父は体調を崩し床に伏せていた。

「母親が“お父さんが呼んでるわよ”と僕に言う。何だろうと思って父の寝ている2階に上がっていきました」

 父は、資生堂時代に社長から初めて認められた作品『寂』を持ってきて、と言う。その作品は経年劣化が進んでいた。

「父が“どう思う?”と聞くので、正直に“だいぶ劣化しちゃったね。ちょっとひどいね”と言ったんです。そしたら、“お前もそう思うか。お父さんもそう思う。だったら、お前が直してくれよ。お前だったらできるはずだから”と。それが親父の最後の言葉になりました」

 1週間後、父親は帰らぬ人となる。

 父の遺言とはいえ、最初の1年間は何をどうやっていいのか皆目見当がつかなかった。

 仕事も忙しかったが、夜の時間や休日を使って、暗室での研究に没頭した。「なぜ写真は劣化するのか」という問いに始まり、古い専門書を紐解(ひもと)きながら研究を続ける日々。

生前の父が残したボツ写真を練習台に、研究を続けた
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 5、6年がたったころ成果が出ずに暗礁に乗り上げ、母親にこうこぼした。

「お母さん、ちょっと無理かもしれない……」

「何言ってるの。お父さんが“お前ならできる”って言ったんでしょ。お父さんが写真のことで間違ったことは1回もないでしょう。やりなさい」

 この母親のひと言がなければ完成には至らなかったかもしれない、と村林さんは笑う。

 研究のかいあり、「修復はできている」というレベルに至ったのが1997年。さらに技術を磨き、特許を取得したのが2002年。父が亡くなり12年の月日が過ぎていた。

 次兄の眞叉夫さんは、弟のこだわりをこう明かす。

「孝夫は余計なことは話さない。父の遺言のことも、僕は修復の技術が完成するまで知りませんでした。孝夫は『写真絶対主義』なんです。つまり、化学的に印画紙に焼きつけたものが写真なんだ、と信じている。モノクロ写真こそがクオリティーの違いを出せる唯一無二のものだとね」