『なごり雪』のイルカとして大ヒット

ソロデビューしたイルカさんと、夫で名プロデューサーの神部さん
ソロデビューしたイルカさんと、夫で名プロデューサーの神部さん
【写真】イルカさんの学生時代、夫・神部和夫さんとの結婚式の写真など(全13枚)

「(なごり雪は)もともとかぐや姫のアルバムに入っていた名曲で、夫がものすごく好きな曲でもあったんです」

 “イルカに歌わせたい!”

 そう言って関係者を口説いたのも、実は神部さんだった。

 南こうせつさんがこう語る。

「(この曲がイルカさんに合うと)直感でわかりました。あの曲のなかには“僕”という言葉が出てくるんだけど、この言葉が合わない女性歌手っているんです。でも違和感がまったくなかった。あの曲は伊勢正三が学んできた音楽のすべてがつまった曲なんですが、それを受け止める高い音楽性をもっていましたね」

 ’75年11月リリースの『なごり雪』は、まさになごり雪の季節となった翌3月に火がつき、80万枚を超える大ヒット曲となった。40年以上たった今もなお歌い継がれている。

 神部プロデューサーは大ヒット後も次々と思いがけない手に打って出る。

 翌’76年には『五つの赤い風船』のリーダーにしてフォーク界の大御所・西岡たかしさんを口説き落として『なかよしコンサート』を全国30か所で敢行した。イルカに好意的なファンの前だけでの演奏では成長はない。夫からの“しごき”ともいえそうなジョイントであった。

 ’77年には、イルカ冬眠(休業)。これも本人でなく、神部さんが決めたこと。

「ずっと何年も休みもない日々が続いていたんです。当時はコンサートへ行っても、その夜は深夜放送の生放送に出て、翌日はキャンペーン。そんな毎日でしたから疲れ切っていたんです」

 “シンガー・ソングライターの名前に甘えるな!”

 これが名プロデューサー神部さんの口癖であった。アーティストとして斜に構え、居心地のいい世界に浸りきるより、歌謡曲の人たちとも同じ土俵でヒットを出し、そうなることで出したい曲、考えを知ってもらうべきだというのである。環境や自然との共生など、自分の世界に走ろうとする妻と、その世界を知ってもらうためにこそ、共感できるヒット曲が必要だという夫。

 磁石が正反対を向くことで磁石であるように、こんな2人でなければ“アーティスト・イルカ”はありえなかった。

 小学6年のとき、誕生日に姉からLPをもらって以来、熱心なイルカファンというスピリチュアリストの江原啓之さんも、「神部さんがすごいのは、10代で結婚したほどの大恋愛でありながら、プロデューサーであることを貫いたところ。イルカさんは神部さんの分身であり、どちらが欠けてもありえないというところで、“音楽界の藤子不二雄”だったんじゃないでしょうか?」

 休業中の結婚7年目、’78年には冬馬さんを出産した。

 2年間の休業をはさんで’79年6月にカムバックを果たしたが、そのコンサートのチケットは即日完売。復帰第1作のシングル『海岸通』も順調に売り上げを伸ばし、アルバム『いつか冷たい雨が』がLPの売り上げ1位を記録した。

 さらに翌年には、女性シンガー・ソングライターとして初めて日本武道館でのワンマンリサイタルを開催する。

 アーティストとして頂点を極めた’80年代、それは実にさりげなく、静かに2人のもとにやってきた。’85年ごろ、神部さんが左手の指輪を気にしながらつぶやいた。“手の震えが止まらないんだ……”。

 モデルクラブの運営やアイドルの育成にも活動を広げ、多忙の極みのような状態。

 “疲れが出たんだろう”本人もイルカさんも、その程度のことだろうと思っていた。

 だが、人と交わることを仕事としていたその人が、人と会うのが怖いと言い出す。電車に乗れば汗が噴き出し止まらない。ほうほうの体(てい)でタクシーに乗り家に引き返すようなことが続くうち、とうとう引きこもりのような状態に。

 病院に行って検査をしたが、何が原因なのかわからない。病名がわかったのは、発症から3年もたった後のこと。

 神部さんは脳内のドーパミンという物質が減ることで発症する、パーキンソン病に冒されていたのだった。