56歳、日の丸を背負う

 2002年にはパラリンピックに次ぐグレードの国際大会である世界選手権(台北)にも出場。2004年アテネに大きく近づいた。パラリンピックに出場できるのは、国際大会で稼いだポイントによる世界ランキング上位者だけ。

 別所さんは立って試合をすることはできないが、座位バランスは良好で、骨盤を保持して体幹の動作が可能であるため、車イスのなかでは最も障害が軽い「クラス5」に入っていた。そのクラスで、世界ランキングを上げることができれば、大舞台に手が届くところまで来ていたのだ。

「やるからには、アテネへ行くんや」

 腹を括った彼女は2003年3月から半年間、カフェの仕事を休んで世界を転戦。アメリカ、メキシコ、イタリア、スロバキアなど8大会に出場した。2004年1月1日付の世界ランキングを10位前後まで上げ、ついにアテネの切符を手にした。一時は生死の境をさまよい、生きる希望を失いかけた56歳の女性が日の丸を背負い、パラリンピックの舞台に立つに至ったのは、快挙と言っていい。

「アテネに行く前から“パラリンピックってどんなものなんだろう”って想像していたけど、開会式が盛大で、他競技の選手と交流できてホントに楽しかったですね。大会の雰囲気の印象が強いかな」

 と別所さんは微笑む。

 試合はグループリーグ1勝2敗で予選敗退したが、「もっと上へ」という意欲はとどまるところを知らなかった。

 4年後の北京は、次男・将人さんや椿野さんファミリーが応援に駆けつける中、5位入賞。前回より順位を上げた。

「孫の佑星が“おばあちゃーん”と大声で叫んでくれたときは身体の力が抜けましたね。パラの卓球選手では史上最年長ということで、中国のテレビ局からも取材を受けましたけど、現地で“老女(ろうば)”と報じられてね(苦笑)。最初は“なんやねん”と思ったけど、反響がすごくて、試合会場でサイン攻めにあった。注目されたことは素直にうれしく感じました。後から中国の卓球選手に聞いたんですけど、老女には“尊敬する”という意味もあるんだそうです。そうわかって、何だかホッとしました」

 充実感を覚える一方で、メダルの懸かった試合でヨルダン選手に敗れた悔しさも胸に深く刻まれた。愛する家族や親友、2度の手術で輸血に協力してくれた人、卓球の活動を支えてくれる人のためにも、ロンドンでは何としても勝ちたいと思った。