大橋巨泉に憧れた学生時代

 ファン、地域、株主、スタッフ、選手など、関わるすべての人たちの心を大きく動かしてきた島田。その根底に流れる苦い教訓と反骨心の原点を辿った。

 島田が誕生したのは、大阪万博が開かれた1970年の11月。山形県との県境に近い新潟県朝日村(現、村上市)で、魚屋を営む一家の次男として成長した。兄、弟、妹のいる4人きょうだいの2番目で「保育園から脱走したり、とにかくヤンチャだった」と苦笑する。勉強は得意ではなかったが、夏になると川に潜ったり釣りをして、とった魚を自ら河原で焼いて食べるような行動派の少年だった。

「ウチは仕入れた魚を売るだけじゃなく、刺身や仕出しの配達もやっていたんですが、1000円で仕入れた魚を調理すると3000円にも4000円にもなることを知った。“ひと工夫して売る努力をすれば儲かるんだ”と子どもながらに感じた記憶があります」

 とはいえ、魚屋を継ぐ気は一切なく、小学校高学年から中学にかけては野球に明け暮れた。だが、ボールの投げすぎで利き腕の右ひじの軟骨を痛め、野球は断念。次なるターゲットをサッカーに定めた。『キャプテン翼』が一世を風靡し始めたころで、マンガ好きだった彼はすぐさま憧れを抱いた。そして、「どうせやるんだったら高校サッカー選手権に出られるような学校へ行きたい」と強豪・日大山形へ行く決断を下す。

 ところが、全国大会常連校には現在、湘南ベルマーレの代行監督を務める高橋健二らスター選手がひしめき、レベルは想像以上に高かった。基礎練習に明け暮れ、公式戦に出たのは1年の新人戦だけ。何度もやめようと思ったが、「私立の高い授業料と下宿代を親に払ってもらっているんだから、始めた以上は最後までやり切らないとダメ」と言い聞かせ、苦しい3年間を気力で乗り切った。

「サッカーではだめだったけど、社会人として勝ってやる」

 野心を抱く島田が次に赴いたのは、東京の日本大学法学部。内部進学ではなく、一般入試での合格は、日大山形では珍しいケースだった。「故郷に錦を飾ってやろう」と勇んで上京したが、大学時代はバイトと飲み屋の往復がメイン。新宿ゴールデン街などに繰り出しては、作家や俳優の卵たちと天下国家を論じていたものの、実際に何をすればいいのかわからない。「自分探し」という名のモラトリアムに陥っていた。

 そんなとき、漠然と憧れたのが、昭和のテレビ界の巨匠・大橋巨泉。50代で早々とセミリタイアし、バンクーバーとブリスベン、京都を季節ごとに行き来する生活が眩しく映った。

「巨泉さんになるためにはお金が必要。そこで次に考えたのが俳優。実は“モックン(本木雅弘)に似てる”と言われたことがあり(笑)、名画に出てくるロバート・デ・ニーロとかに憧れていたんです。大学2~3年でオーディションを受け、唯一、引っかかったのが欽ちゃん劇団。3000人中40人という狭き門を突破し、萩本欽一さんや見栄晴さんたちと絡んで訓練を受けるようになりました」

 しかし、真剣にコメディアンを目指す仲間と稽古を重ねるたびに、大きなギャップを感じ始めた。「このままじゃ俳優になれるのは50歳くらいかもしれない」。この道を突き進むかどうか悩み抜き、大学4年の前半に見切りをつけた。

「やっぱり俺は大橋巨泉になりたい。だったら金を稼ぐことが先決で、経営者になるのがいちばんの近道」

 そう心に決めた島田は遅ればせながら就職活動に着手。石油業界、ビール業界、旅行業界の3つに絞って受験した。しかし当時の島田は、最終面接で必ず社長に論争を仕掛ける「面倒な学生」で、結果はほぼ全滅。

 '92年、唯一、受かった旅行会社『マップインターナショナル(現・H.I.S.)』に入社する。