【伝説6】国会をも動かした!?

 光GENJIのデビュー時、赤坂は14歳、佐藤敦啓は13歳。人気が爆発した1988年はふたりともまだ中学生だった。児童の深夜業を禁止する労働基準法(第61条)により、夜8時から朝5時はテレビ、ラジオへの生出演ができず、歌番組では2人が映る収録のVTRを、スタジオで5人が歌う映像と交互に流すなど苦肉の策も。しかし、ときには生放送の歌番組に7人そろって出演してしまうこともあり、曖昧な状態が続いていた。

 結果、1988年6月に労働省の労働基準監督署がジャニーズ事務所へ調査に入る。その後、議論の舞台は国会や関係機関へ。

 最終的に「歌や演技など、他者では代わりができず、人気など当人の個性が重要な要素になっていること、加えて雇用契約などの要件を満たす場合は『表現者』とみなし、労働基準法を適用しない」という「芸能タレント通達」が出された。実質的に当時、人気絶頂であった光GENJIのための通達とみなされ、通称「光GENJI通達」とも呼ばれた。

【伝説7】解散コンサートのチケットに最高100万円!

 1995年9月に行われた光GENJI SUPER5の「卒業コンサート」。「彼らの最後の姿を目に焼きつけたい」と願うファンも多く、名古屋レインボーホール(現在の日本ガイシスポーツプラザ)で行われた最終公演はチケット価格が驚くほど高騰したという。

ダフ屋の扱っていたチケットには最高で100万円もの高値がついたものもありました。それが実際に売れたというから驚きです」(業界関係者)

 当時、主流だった巨大なネームボードやジャンボうちわには「8年間ありがとう」「いつまでも大好き」「またあえるよね」などの文字が躍り、ラスト曲『Graduation』のイントロが流れた瞬間、会場中に響く嗚咽の声。 

 こらえきれずに涙をにじませる赤坂、歌いながら目を押さえる山本、そして挨拶では、最年少である佐藤敦啓が「このステージが終わったら卒業するってことはわかるんですけど……。だったら、このステージはやりたくないなって」と声をつまらせる場面もあった。

 脱いだローラースケートを中央に並べ、ステージから去っていった彼ら。その姿はファンの心に永遠に焼きついている。