アイドルが“儲かった”時代

『スター誕生!』450回記念パーティーにて。初代司会者の萩本欽一と2代目司会者を務めたタモリと谷隼人(岩谷隆広)
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 ちなみにもっとも多くプラカードが上がったのは桜田淳子の25本。1972年9月、4回目の決勝大会でのことで、当時の桜田は14歳だった。

 同い年の百恵さんが応募したのはその直後。自分と妹を1人で育てていた母親を経済的に助けようと考えてのことだった。百恵さんのプラカードは20本。7年間におよんだ百恵伝説の幕開けだった。

 透明性が確保された番組のようで、実は決勝大会前に下見の機会が設けられていた。ここでプロダクション、レコード会社は「あの子を獲り、こんな路線で売ろう」などと作戦を練った。

 また、プラカードが複数上がった場合、本人と家族が各社と面接し、待遇や条件を吟味。その上で所属先の最終決定は日テレ側が行なった。

「この慎重さも結果的にはよかった。ミスマッチが極力防がれた。また、日テレが有望な人材を特定の会社に集中させなかったから、お互いにライバルなのに各社から不満が出なかった」(同・元レコード会社幹部)

 例えば1981年には3月に小泉今日子が決勝大会で合格。その4か月後の7月、中森明菜がやはり合格したが、日テレの意思によって2人は同じプロダクション、レコード会社にはならなかった。

小泉今日子
小泉今日子

「本当は多くの社が2人とも欲しかったんです。図抜けた存在でしたから。けれど日テレがそれを許さなかった」(同・元レコード会社幹部)

 すべてはプロデューサーの故・池田文雄さんの考えだった。中学から大学まで慶応で音楽に没頭し、大学時代はダーク・ダックスと一緒に男性合唱団の活動をした人だった。

 時代も『スタ誕』に味方した。

「くしくも1970年代、80年代は各社がアイドルに力を注いだんです。理由は単純明快。アイドルは絶好のビジネスでしたから。それまで主流だった歌謡曲の歌手や演歌歌手、フォーク歌手と違い、レコードが売れるだけでなく、ドラマや映画もつくれる。CMの仕事も来る。あの時代、芸能人でもっとも商品価値が高かったのはアイドル。各社とも『スタ誕』から目が離せなかった」(同・元レコード会社幹部)

 たしかに百恵さんはレコードが売れたのみならず、主演映画13本はすべてヒットした。1980年代から90年代の小泉今日子はCM女王の名を欲しいままにした。

 では、どうして『スタ誕』は消えたのか。

「ホリプロ・スカウトキャラバンが1976年に始まるなど各社が自前でオーディションをやるようになり、『スタ誕』に出るメリットが乏しくなりましたからね。各社としてみたら、ウチに仕切られるより、やりやすいし、アイドル志願者もプロダクションやレコード会社のオーディションのほうが歌手デビューや映画出演などの近道と考えた」(同・元日テレ幹部)

 有望なアイドル志願者が流出したことが一番の理由になり、1970年代には15%を超えていた世帯視聴率が、80年代に入ると10%に届かなくなった。これでは存続が難しかった。

 役割を終えた『スタ誕』が消えるのは歴史の必然だった。

高堀冬彦(放送コラムニスト、ジャーナリスト)
1964年、茨城県生まれ。スポーツニッポン新聞社文化部記者(放送担当)、「サンデー毎日」(毎日新聞出版社)編集次長などを経て2019年に独立