目次
Page 1
ー よかれと思って、生徒たちを追いつめていた
Page 2
ー 不登校への対応は教員だけでは無理
Page 3
ー 子どもには自由を与えなきゃいけない
Page 4
ー 自然や地域から隔絶された社会であえぐ子どもたち

 岐阜県の山間の村落に、西濃学園中学校・高等学校という、中高一貫の全寮制不登校特例校があります。学園長の北浦茂さんは、文字どおり「私財をなげうって」この学校をつくりました。自宅は売り、廃校となった校舎を譲り受け、現在北浦さんは、町職員用の家賃5000円の宿舎に暮らしています。

 拙著『不登校でも学べる』でも詳しく取り上げていますが、北浦さんは、子どものころから勉強は得意ではありませんでした。でもすばらしい先生と出会い、自分も教員になろうと決意します。なかなか大学には入れずに、19歳でいちどは就職しますが夢は諦めきれず、大学を受け直し、私立高校の非常勤講師として教員のキャリアをスタートしました。

 そこで当時「登校拒否」と呼ばれた子どもたちに出会います。1970年代のことです。そのような子どもたちにどう接していいのか、当時は情報も乏しく、右も左もわからずに北浦さんは奮闘します。現場で約50年間、不登校の子どもたちに寄り添ってきた北浦さんの試行錯誤の歴史を振り返ります。

よかれと思って、生徒たちを追いつめていた

 ある年の春、新入生のオリエンテーション合宿に、生徒指導部長として引率しました。昼食後、クラス担任が駆け寄ってきます。「北浦さん、ちょっと難しい子がいる」。急いで行ってみると、目の前の机に両手を突いてガタガタ震えている子がいました。宿舎に入るのが怖くて怖くてしょうがない様子です。

当記事は「東洋経済オンライン」(運営:東洋経済新報社)の提供記事です

 翌日から、その生徒は学校に来ませんでした。

「それが、いわゆる当時の『登校拒否』との初めての出会いでした」

 でも、定期的にその子の家を訪ねて、訳もわからずに寄り添っていたら、3カ月くらいで学校に復帰できました。

「それは単なる奇跡だったと、いまになって思えばわかるんですが、当時私は天狗になるんです。俺なら登校拒否も治せると」

 別のある生徒の場合。「俺が家まで迎えに行ったら来られるか?」と聞いたら「行けます」と言うので、毎朝出勤前に彼の家に寄ることにしました。「お迎え登校」です。車に乗せて学校に行きます。当然、両親は大喜びです。