「普通」に憧れた少年がテレビの世界へ

 父を通じて、映画の世界が身近にあった大島さんだが、子どものころから監督になりたかったわけではない。小学生のころに学校の作文で書いた「将来の夢」は、「普通の人」だった。

幼い日の大島さん(左から2人目)。映画監督の父、女優の母は多忙で、家族が集まることは珍しかった
幼い日の大島さん(左から2人目)。映画監督の父、女優の母は多忙で、家族が集まることは珍しかった
【写真】映画監督・大島渚さんを父に、女優の小山明子さんを母に持つ大島新さん(53)。幼き頃の家族写真。

 大島さんは1969年、神奈川県藤沢市で生まれた。両親と6歳上の兄、祖母との5人暮らしだが、その家庭環境は「普通」とは言い難い。

 父の大島渚は、言わずと知れた日本映画界の巨匠だ。京都大学卒業後、松竹に入社し27歳で映画監督デビュー。'76年には阿部定事件を題材にした『愛のコリーダ』を発表、大きな話題を集め、国際的にも高い評価を得る。

『朝まで生テレビ』でのパネリストの印象も根強い。歯に衣(きぬ)着せない言動でお茶の間の人気を集めたが2013年1月、肺炎により80歳で亡くなった。

母に代わり、祖母(左)が家事や育児を担っていたという
母に代わり、祖母(左)が家事や育児を担っていたという

 母の小山明子(87)は松竹からデビュー後、美人女優として数多くの映画に出演。花登筐(はなとこばこ)の『あかんたれ』などテレビドラマでも活躍し、'21年には日本アカデミー賞会長功労賞を受賞している。

 2人とも超がつくほど多忙を極めたために、大島家では長男が生まれたとき、京都にいた父の母親を呼び寄せ、家事と育児を任せた。

「だから幼いころのイメージは、おばあちゃんと兄と3人のグループでした。両親とはあまり接触する機会がなかった。

 正月に、父の映画のスタッフが大勢で家に集まるくらいかな。特に母は舞台が多かったので。当時の商業演劇の舞台って長期間、多いときは年の半分くらい、地方公演をやっていましたから。

 母の思い出といえば、授業参観かな。2年に1回ぐらい着物姿で髪もアップにして学校へ来て、すごく嫌だったのを覚えています。よそのお母さんと比べて異様な人という感じで。あの当時、昭和50年代の母というのはみなさん、地味でしたからね」

 父の作品を見たのは中学2年のとき、『戦場のメリークリスマス』が最初だ。

父の作品は18禁ですからまったく見ていませんでした。よく見ていたのは当時、ヒットしたハリウッド映画。スピルバーグの『E.T.』は好きでしたね。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』とか、ジャッキー・チェンとか……。普通ですね(笑)」

 有名人を数多く輩出している湘南高校から、早稲田大学第一文学部(当時)に進むと、探検部に所属した。

大学では探検部に入部。アルバイトで旅費を稼ぎ、内モンゴルやアフリカなどを訪ね歩いた
大学では探検部に入部。アルバイトで旅費を稼ぎ、内モンゴルやアフリカなどを訪ね歩いた

「このサークルの影響は大きかったですね。新聞やテレビ、出版などメディアに進む人も多かった。

 探検部では基礎的な山登りなどのトレーニングもやるんですけど、文化人類学的な調査、先住民のいるところに行って同じ時間を過ごすこともやっていて、私はアフリカに行きました。

 あとはジャーナリスト的なこと、まあ毛の生えた程度ですけど、西サハラの難民キャンプに行ったりもしました」

 当時から人物のドキュメンタリーには興味があった。

「将来の希望は特になかったけれど、子どものころから伝記や人物伝が好きで。高校生になると司馬遼太郎さんにハマり、続いて沢木耕太郎さんのノンフィクションに惹(ひ)かれて読みあさりました」

 大学時代によく見ていたのが、フジテレビの深夜のドキュメンタリー番組『NONFIX』だ。その制作に興味を持った大島さんは'95年、フジテレビに入社する。

 華やかな雰囲気の漂うフジテレビで大島さんが志望したのは、ドキュメンタリーや新規開発番組を担当する「企画制作部」。

 当時は、派手なイメージのドラマやバラエティー番組を志望する同期が多かったため、すんなり配属が決まった。ちなみに大島さんがアシスタント・ディレクターとしてキャリアをスタートさせた番組は、『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』だ。

 入社直後の'96年2月、大島さんは結婚した。ところが、そのわずか2週間後に父が脳出血で倒れ、それをきっかけに母がうつ病を発症するという事態に見舞われた。

 そんな苦しい状況の中、大島さんは自ら企画した『ザ・ノンフィクション』の番組『先生は銀メダリスト〜太田章の挑戦 5度目の五輪・アトランタ』を制作。この作品を病床で見た父・渚さんの評価は「おもしろかったけど、ちょっと上品すぎたかな……」だった。大島さんが言う。

「きっと、オーソドックスにまとめたことへの叱咤(しった)でしょうね。“もっと過激で、もっと自由な番組を”という思いだったのかもしれません」

 入社2年目の'97年、憧れの番組『NONFIX』に出していた企画が通った。4月に開局が決まっていた、山形県のさくらんぼテレビのドキュメンタリー番組。地方に新しくできるテレビ局のスタッフを取材し、彼らの志や葛藤を通じて、テレビとは何なのかを問う内容だった。

 オンエア後、賛否両論があったが、「自分としてはやり切った」という手応えを感じた大島さんは、その後、紆余曲折を経てフジテレビの退社を決意する。

「上司に“深夜で何か月もかけてドキュメンタリーを作るポジションではなく、ゴールデンのレギュラーで会社に貢献してほしい”と言われました。もっともなんですね。私がこの会社にいるほうが間違っている、と感じました」