子どもは叱らず、チャンスを与える

 ここで、三浦家の軌跡を振り返ってみたい。

 雄一郎さんは1932年、青森県生まれ。幼少期は病弱だったが、小学2年生のときにスキーに触れたのがきっかけで本格的にスキーを始めた。父はプロスキーヤーの三浦敬三さん。青森で育った小学生時代、病気がちな母に代わって食事の用意を担当したのはもっぱら敬三さんで、健康への意識が今ほど高くない時代から身体にいい食べ物に関心を持っていた。

「僕の父親は日本の山岳スキー黎明期にアウトドアスポーツや健康、食べ物といろんなことを模索し、それを文章で表現するのが好きな人でした。僕もある程度それを受け継いでいると思いますし、これから先もそれを続けていきたいと思っています」

 1962年、29歳でアメリカのプロスキー選手権に出場した雄一郎さんは、1964年スピードスキーで当時の世界記録を樹立。その後、37歳でエベレスト8000mからのスキー滑降を含む7大陸最高峰からのスキー滑降を成功させた。

 プロスキーヤーとして、冒険家として、数々の偉業を成し遂げ、日本のアウトドアシーンを切り開いてきた。その生き方に憧れた多くの若者があとに続き、新たな裾野が広がった。

 奥さんの朋子さんとは学生結婚。その後、子どもが3人できたのは前述のとおり。実は豪太さんも、恵美里さんも、雄一郎さんに一度も叱られたことがないという。

「うちはどうやら、人を怒ったり、貶めたりということは代々しないキャラクターみたいです。僕自身も父に叱られた記憶はないですから。ただ、チャンスを与えるということはしてもらったし、してきたと思います」

 雄一郎さんが恵美里さんに与えた最初のチャンスは、小学校卒業後12歳でのアメリカ留学。

「言葉が通じないこともあって、当然ホームシックにはなったんですけど、あの時代はLINEもないし、簡単に国際電話をかけられるような時代でもない。父に『帰りたい』とは伝えられませんでした(笑)。だけどその結果、今があると思います」(恵美里さん)

 恵美里さんは現在、父や弟の夢や冒険を支えるミウラ・ドルフィンズの社長を務めている。海外番組のリポーターなどで、世界32か国を訪れた国際派だ。

 家族で何度もキャンプや登山も経験した。そこで育まれたのはチーム三浦家の結束力。恵美里さんがプロデューサーとして全体を把握し、雄大さんは状況を俯瞰し、緻密に考えてやるべきことを的確にやる。豪太さんが現場で身体を動かす。三者三様の特性を活かすことで、チームはより強く、できることも広がっていく。

 介護の方向性の話し合いが難航せずに済んだのも、チームの結束の賜物だろう。