“食”は誰かの記憶とつながっている

 小説とエッセイ、書くことについての話へ。

:この本に出てきた父親のまずいチャーハンの話で思い出したことがあって。学生時代に「東秀」ってところでテイクアウトのチャーハンを買ってきて、家でオイスターソースを入れて炒め直すってのが流行(はや)ったこと。あと、良かったのは『あぶない刑事』を見ながら、妹さんとミートソースパスタを食べる話かな。

:編集の方から「食を切り口にしたとき、思い出す人を書いてほしい」と依頼があって。「食については書いたことがないし、自信がない」と答えたんですけど、「今までの作品にも印象的な食べ物やお酒が出てきてますよ」って言われて。振り返ってみたら、確かに書いていたんです。図書館で食のエッセイを借りてきて読んだりもしたんですけど、みんなおいしそうに書くじゃないですか?

 でも自分は一個もおいしそうに書けなくて……。ただ、食は切り口でいいという方向性だったので、食べている環境のことや気配、そのとき好きな人がいたなというようなことを少しずつコラージュして。手触りとか、熱さとか、そういう覚えているものを真ん中に置いて書きたいなって。そうやって書くと、今の戌井さんみたいに言ってくれる人がいて、読んでくれた人の食の記憶とつながっていくことがうれしかったですね。

:なんかそこがね、普通の食のエッセイと違うところで、雰囲気ありましたよ。そういう記憶が「いつかまた恋しくなる」ってことですもんね。

:結構時間がたってから、あの人はいないんだなとか、本当にもう会えないんだなって思ったりして、ドーンと悲しくなって。僕はものを書くという仕事をさせてもらっていて、でも書くと忘れちゃうんですよ。それでこうやって一冊になって読み返してみると「なんでこう書いたんだろう」と思うことがあって。でも、今の自分が思ってることより、書いたことのほうが事実や真実に近い気がして。

:うん、ありますね。読み返してみて、書いてるときの感情も、今の感情もどっちも違うわけではないんだけど。書き終わるとうっすらしちゃうのかな。

:最初に小説を書いたときに、自分の気持ちが整理整頓できて、相手もきっとこう思っていたんだなと全部観測できて。まだ血が流れてるってことまでわかったんです。海に向かって、ボトルに入れた手紙を出すみたいに、その文章がどこかの誰かに届いて、別の場所でも同じようなことが起きていることがわかると、だんだん沈静化していくんです。

:悲しみだけじゃなくて、怒りも、書くことでおさまっちゃうことありますよね。俺も映像の仕事で、現場でネクタイを締めるときにまごまごしていたら、衣装のおばさんが「あなた、役者でしょ?」って言ってきて。本当に嫌な感じで怒る人で。ウエストが1センチくらい増えていたのか、用意されたズボンがきつくて。そうしたら、そのおばさんがすっごい怒り出して「私たち、数字で商売してんのよ!」って。あまりにもムカついて『俳優・亀岡拓次』って小説に名前を変えて書いたことありましたよ(笑)。

:そうやって日常のエピソードを入れるんですか?

:入っちゃいますね。

:わかった!小説を書くときと、エッセイを書くときに違うこと。書くときに真ん中に置いてることが本当のことで、そこに演出が入るのが“エッセイ”。真ん中に虚構があって、その周りに本当のことが書いてあるのが“小説”ですね。