いじめられっ子を救った母の教え
「友達なんて要らない」幼いころは、そう思っていたと和田さん。
'60年、日本が高度成長期に入ったころ、大阪・東淀川で会社員の父と専業主婦の母のもとに生まれた。年子の弟とともに4人家族で育つ。
父の転勤により少年時代に6回の転校を経験し、そのたびいじめに遭った。
「東京では大阪弁でばかにされ、大阪に戻れば東京の言葉で嫌なやつと言われた」
身体は小さく、運動もケンカも苦手。さらに「今でいう自閉症スペクトラムやADHDの傾向があった」と自己分析する。落ち着きがなく、人の気持ちがわからない子どもだったという。
それでも母は「性格を直せ」とも「みんなに合わせろ」とも言わなかった。大阪弁をばかにされたときも、「東京は田舎者の集まりやねんから、大阪のほうが歴史あんねん」と笑い飛ばし、言葉を直す必要はないと励ました。
友達付き合いには興味が持てず、兄弟の絆が深かった。弟とよく漫才ごっこをして遊んでいたという。
「みんなと同じことを言ってるやつはつまんないって、子どもなりに思ってたのね。小学生の間は、自分は天才だと思ってたからさ」
記憶力は並だったというが、知ることへの関心は尽きなかった。背中を押したのは母の一言。
「おまえは変わってるんやから、医者でも弁護士でも、なんか免状取らないと食っていかれへんよ」
個性を否定せず、生きる道を示したその言葉が、いじめられっ子の和田さんに、学問で身を立てる覚悟を与えた。「親が邪魔せず、伸ばしてくれたのはありがたかったですね。僕は今、弱者の味方になりたいとか、世の中を良くしたいとか思うようになったけどさ。人と合わせるとか、みんなが言ってることが正しいなんて考え方とは真逆だったし。それが僕の発想の基です」
挫折続きの青年を魅了した映画
名門・灘中学校に進学した。個性的な仲間に出会えると期待したが、待っていたのは頭脳明晰でスポーツも得意、礼儀も完璧なエリートたち。「俺みたいな変人ばっかりかと思ったら、全然そんなことなくてさ」と肩透かしを食らった。家庭環境にも差を感じた。
「うちは平均的なサラリーマン家庭で、父は関西の私大出身、母は高卒。同級生の親の3分の1は医者。残りも東大や京大、阪大出身の銀行支店長とかだったからさ」
劣等感と疎外感から、ラジオの深夜放送にのめり込む。あのねのねや山本コウタローの軽妙な語りに、大人の雰囲気や東京への憧れを募らせた。英語学習を口実に買ってもらった高性能ラジオで東京の電波をキャッチし、朝まで聴きふける生活を送った。
やがて、トップで入学した成績は急降下し、中学1年の終わりには173人中127位まで落ち込んでいく。
「勉強しか取り柄がなかったのに、それすらできなくなって、みじめになったね」
そんなとき、講演に訪れた灘高卒業生の遠藤周作さんの、ユーモアと挫折を交えた語りに心を打たれ、「小説家になる」と決意するも、筆は進まず、すぐに断念。ギター、生徒会選挙、留学生試験もすべて失敗に終わり、何をやってもうまくいかない日々が続いた。
転機は高校2年のとき。映画『赤い鳥逃げた?』の中で繰り返される「なんとかしなくっちゃ」という言葉が耳に残り、エンドロールを見ながら気づく。
「映画は脚本が書けなくても、音楽が作れなくても、カメラを回せなくても、監督の思いがあればできる芸術なんだ」
いくつもの挫折を経験した和田さんにとって、映画が唯一の希望になった。
「それから授業をさぼって、1年で300本見ていたよ」
日活の助監督試験を目指すが、映画不況で中止に。そこで考えた代案が、医師として働きながら映画資金を貯めるという道。
「医者になれば、映画を撮るための資金を数年で貯められるし、免状があれば再就職もできると思って、医学部志望に変わるわけ」
地方の国立大学では監督への道が遠くなると考え、東京か京都の大学を志望することに。当時の成績では届かないと察した和田さんは、独自の勉強法を編み出した。
「数学は暗記、受験は要領」と割り切り、解法パターンを徹底的に覚えた。また、灘高では東大合格日本一を守る団体戦の意識があり、参考書や模試情報を共有し、助け合う中で、仲間と協力する大切さも知る。
「へこたれちゃあかんで、と励まし合ってたのね。足の引っ張り合いより効率いいから」
そうして見事、東京大学理科三類に現役合格を果たす。

















