受験本が大ベストセラーに!
東京大学医学部を卒業後、選んだのは精神科。「内科は無理、外科は手先が不器用すぎる」と自覚しての選択だったが、当時の所属先は東大闘争の余波で混乱していた。
「全然勉強にならないから」
と2年目には精神科医師連合とケンカ別れし、老年科神経内科へと進む。
同時期に、学生ライター時代に知り合った女子大生と結婚。妻の実家がある水戸の病院で後期研修医として働いていたころ、編集者から電話がかかってくる。
「おまえの言ってた受験勉強のやり方、面白いから、本にしない?」
こうして'87年、『受験は要領』(PHP文庫)が出版され、シリーズ累計200万部を超える大ベストセラーに。その印税でアメリカ留学を果たす。
米国カール・メニンガー精神医学校で2年半学び、フロイトの「無意識」理論を否定し、共感と対話を重視する「自己心理学」に触れた。アメリカでは精神分析は「客商売」。当時1時間200〜300ドルの対話で、患者が納得しなければ離れていく。
「あなたの無意識はこうだと言われると、日本人は素直に聞くかもしれないけど、アメリカ人は即退席。共感されるほうが大事なんだよ」
この姿勢は日本の学会では受け入れられず、「完全に干された」と笑う。
帰国後、東京・杉並区の老人専門病院「浴風会」に勤務。ここでの足かけ9年間が人生観を大きく変える契機となる。
まず衝撃を受けたのは、医療の“常識”が現場では通用しないという事実だった。
「タバコを吸う人と吸わない人の死亡率に差がなかったり、血圧が130でも150でも死亡率に変化がなかったり。高齢者の血糖値と死亡率に相関がないことも明らかになった」
教科書の理屈と、目の前の現実はまるで違う。
「日本の医者は理屈ばっかり。現実を見て、やり方を変えるべきなのに」
さらに、そこでの病室での光景が価値観を塗り替えた。かつて社会的地位の高かった入居者たちが認知症や寝たきりになっても、見舞いに来る人が誰もいない。
「上の人に媚びて出世したやつって、下に嫌われてるから、全然見舞いが来ないんだよ」
一方で、部下や後輩を大切にしていた人のもとには、見舞いが絶えなかった。
「地位とか役職なんて一過性のもの。その地位を手放した途端に、ただの人になる。それのためにガツガツするのは、やめようと思った」
37歳で常勤医を辞め、執筆や講演に専念する決断をした。非常勤で残ろうとしたが「制度がない」と断られ、「上の都合で辞めさせられた感じかな」と、また笑う。
同じころ、東京大学の教育心理学研究会に認知心理学を学ぶために参加。臨床心理士・植木理恵さん(49)が、和田さんとの出会いを振り返る。
「最初は腰が低くて、私なんかがいてすみませんと、小さくなって座っていたんです」
だが議論が始まると空気は一変。当時の東大では「ゆとり教育」が主流で、詰め込み型からの脱却が語られていた。その日も賛同者が多い中、和田さんはこう問いかけた。
「その“ゆとり”って誰のためのものですか? 先生や大人の都合じゃないんですか? 子どもが望んでるんですか?」
会場は静まり返ったという。
「ゆとり教育の本丸に、1人で丸腰で乗り込んできた感じで、相当やり合ってました(笑)。当時、お子さんが小さくて、学校がちゃんと教えてくれないと困るって本気で怒ってて、日本がダメになるぞって危機感を訴えてましたね。
怒りを原動力に社会に問いかけてて、ずっとブレてないんですよ」
ただし酒に酔うと、街の誘導員や警察官に「これ何の工事?」「ストーカー案件どうなってる?」と真顔で詰め寄る癖は、やめてほしいと植木さんは釘を刺す。
「ベルトがちぎれそうなほど止めたことがあります(笑)」












