“ネズミ男”から激変!料理研究家へ

秋冬でも一日中、素足で働くまさるさん。スーパーの配達で注文した食材が届かないトラブルが発生すると、すかさず電話を入れ、撮影に影響が出ないよう対処
秋冬でも一日中、素足で働くまさるさん。スーパーの配達で注文した食材が届かないトラブルが発生すると、すかさず電話を入れ、撮影に影響が出ないよう対処
【写真】全身を真っ黒にしながら炭鉱の現場で働いていた小林まさるさん

 まさるさんが、料理の世界に入ったのは70歳のとき。まさみさんのアシスタントになったのが最初だ。カメラマンやスタイリストなど若い人と仕事を共にするうち、気持ちも若返ったのか、雰囲気まで変わっていき、まさみさんを驚かせた。

「1995年に私は結婚したのですが、当時は夫と2人でお父さんのことを“ネズミ男”と呼んでいたんです。グレーのものばかり着るから。眼鏡も昔のおじさんがかけている地味なものでした。私のことは、(背が)“デッカい女”と思ったみたいですけど(笑)」

 高校を卒業後、北海道の炭鉱会社や千葉の鉄鋼会社という“重厚長大”型企業で働いていたが、人生何が起こるかわからない。アシスタントのキャリアを積み、自らも料理研究家としてデビュー。

 昨年10月に、4冊目の単著『92歳、小林まさるの脳トレスープ』を出版し、NHK『あさイチ』やTBS系『マツコの知らない世界』などに出演。今や電車に乗っても気づかれる存在に。

 4年前には、88歳の米寿を機にユーチューバーにも挑戦。ヘッドホンを首にかけたDJスタイルで、悩み相談に乗ったり、餅つきやスイカ割りをしたり、川柳を作ったりしている。フォロワーは1万5000人を数える。

 まさみさんのスタジオの表札には社名「TRY━SURU(トライスル)Company」と書かれたプレートが掲げられている。“挑戦”は小林家の合言葉でもあり、まさるさんはそれを体現する。

「年だから引っ込んでようとか言う人がいるけど、“年だから”と言うのが“年寄り病”のサインなんだよ。年をとったら、もう残された年数は限られているんだから、怖がらずに挑戦して、失敗しても気にせず次にいけばいい」

 まさるさんの人生をたどると、山あり谷あり。しかしずっと続けてきたのは、尻込みせず、挑戦することだった。

終戦後、一家自決の危機に…

全身を真っ黒にしながら炭鉱の現場で働いていたまさるさん
全身を真っ黒にしながら炭鉱の現場で働いていたまさるさん

「命がけだったね」

 幼少期は生まれ育った環境から、食べるものにも苦労した。

 まさるさんが、7人きょうだいの長男として生まれたのは1933(昭和8)年4月。北海道の北に浮かぶ樺太である。当時は島の南半分が日本領だった。父親は炭鉱で機械工として働いていたという。

 幼いころから釣りが好きで、
イワナを釣っては、川で大根、にんじん、ジャガイモなどと一緒に焼いて食べたり、みそ汁を作ったりしていた。

 8歳のころだ。やがて戦況が厳しくなり、「戦争勝利」を願って「勝」と名づけられた少年は、自分もお国のために兵隊になると思っていたが、戦争に行くことなく12歳のときに終戦。樺太では、そこからが地獄だった。

 ソ連軍が侵攻してきたのだ。

「殺人、略奪、レイプ……、ひどいもんだった。俺よりも1~2歳上の人も徴兵されたんだけど、この戦いで何人も死んでいった。終戦がもう少し遅かったら自分も兵隊になっていて、もうこの世にはいなかったかもしれないね」

 いつソ連兵に殺されるかわからない。そんな不安な状況に置かれる中、まさるさんの父親は家族を集め、思い詰めた表情でこう告げた。

「恥をかかされるぐらいならみんなで一緒に死のう。おれは手榴弾を持っている。いざとなったら弾のピンを切る」

 まさるさんは当時の心境をこう回想する。

「人間、死ぬとなったらどうなると思う? “無”だよ。今日死ぬのかな、明日死ぬのかな……。何も考えられない。笑顔なんてないよ」

 8月下旬に地上戦は終わったのだが、ソ連が樺太全土を実効支配し、日本が使っていた機械で石炭採掘を始める。ところが修理ができる技術者はいない。そこでまさるさんの父親が、ソ連の技術者を指導することになったのだ。

 だからといって優遇されることはない。困ったのは食べ物だ。配給されるのは1日1㎏の小麦だけ。小麦を塩と水でのり状にしたものを湯に入れ、それを家族9人で分けた。

「弟は腹をすかせて、歩きながら膝から崩れ落ちて、歩けなくなってしまったんだ」

 まさるさんは家族の食料を確保するため、ソ連兵の監視をかいくぐって、川でサケをとったり、パン工場の敷地に忍び込んで、雪の下に埋まっている塩を拝借したりした。サケは持ち帰って食べるが、塩は換金して食べ物などを買った。誤って川に落ちれば、凍傷で死ぬ危険もあった。ソ連兵に見つかって銃口を向けられたこともあった。

「ただ生きることだけを考えていたね。家族全員が食べられるにはどうしたらいいか。人の家に盗みに入ったりはしないけど、食い物がなくなるという極限状態に置かれたら人間って何でもやるもんだ」

 まさるさんが当時よく夢に見たのは、「白いご飯とたくあんを腹いっぱい食うこと」だったという。