シングルファーザー生活の限界
終戦から3年たって、ようやく樺太を脱出、北海道で生活するようになる。ここから20年近くは苦労が報われたように順風の日々だった。
三井鉱山が運営する美唄の鉱業学校(高校)に入学できたのだ。学生ながら恵まれた環境で、お金まで支給された。ラーメン一杯20円台の時代に、1年生で月500円、3年生で2000円、卒業すると憧れの三井鉱山に入れるため、高い競争率を誇っていた。そんな難関校に見事合格。「偶然うまくいっただけ」と謙遜するが、優秀だったのだ。
首尾よく三井鉱山に入社。給与もよかった。大卒の給料が1万5000円の時代に、まさるさんたちは4万円。テレビ、洗濯機、バイク、ピアノなどは、全国トップクラスの早さで手に入れた。当時、炭鉱は花形産業だったのだ。まさるさんは家に遊びに来る友達と、飲んだり食べたりする時間を楽しみにしていた。
「そのとき、家の畑に植えてあったほうれん草をとってきて、卵と一緒に炒めてみんなに食べさせた。油揚げがあればそれも一緒にして。酒のアテだったな」
出世コースを着実に歩み、27歳のとき、ドイツに3年間派遣される。しかし帰国後、人生は暗転する。エネルギーの主役が石炭から石油に転換するタイミングだったのだ。
私生活もパッとしなかった。'67年、34歳で見合い結婚し、男女2人の子どもに恵まれるが、妻と性格が合わず、4年ほどで離婚してしまう。
子どもを引き取るも、シングルファーザーではうまくいかず、「子どもがいじめられたらかわいそうだ」という親の助言もあり、結局元の妻とよりを戻すことに。出世頭だったキャリアを捨て、身内のいる千葉に引っ越し、新しい人生を歩むことになる。
妻の闘病中に覚えた料理
そのとき38歳。鉄鋼会社に転職するも、「遅すぎる新人」は辛酸をなめた。
「若いあんちゃんにアゴで使われてな。あー、悔しかった。家に帰って酒飲んで、布団にくるまって泣いたよ」
家の近くにあった中山競馬場からファンファーレが聞こえると、それに誘われてついつい馬券を買うことに。負けがこんで炭鉱の退職金の半分を溶かしてしまった。
「これじゃダメだと反省してね。若い社員からちゃんと仕事を教わって、覚えなきゃいけないと」
しかし一難去ってまた一難。今度は妻の体調が思わしくなくなる。最初は腎臓が悪いという診断だったが、肝臓も不調になり、やがて入退院を繰り返すようになる。まさるさんが50歳を過ぎたころだ。
それからは、妻に代わって台所に立つことになる。息子の史典さん(56)によると、「食事や弁当のメニューを決めて買い物に行くのではなく、冷蔵庫にあるもので献立を考えていた」という。
まさるさんに当時のことを聞くと、こう振り返る。
「手の込んだ料理はできないよ。魚を焼いたり、魚ばかりじゃダメだから肉を焼いたり、野菜も炒めて食べさせたり。炭鉱時代に友達に食わせた“ほうれん草の卵炒め”も作ったな。子どもは2人とも育ち盛りだから、栄養のバランスを大ざっぱだけど考えていたね。ミンチの肉を買わないで、買った肉を叩いてひき肉にしたのは、料理へのこだわりではなく、そのほうが安かったから」
史典さんのイチオシはカレー。市販のルーを使わず、小麦粉を炒めスパイスを入れた自家製ルーで作られていた。
ただ、弁当にまつわる記憶で今も史典さんの記憶に鮮明に残っているのは缶詰だ。
「2個弁当箱があって、1つにはご飯と卵焼きが入っていて、もう1つには開封されていない缶詰が缶のまま入っていたことがあったんです。親父、酔っ払いながら作ったのか、仕事で疲れていたのかなと思いました」
史典さんとまさるさんは、普段あまり会話が多いほうではなかったという。進路にも口を出さない放任主義。食事の仕方で身体や心の調子がわかったりするものだが、食事を作ることは親子の数少ない“会話”だったのかもしれない。
闘病の末に妻が亡くなり、数年後、まさるさんは定年を迎える。定年後は、北海道の田舎に引っ越し、趣味の釣りと狩猟ざんまいの余生をイメージしていた。しかし、息子が結婚するタイミングで人生は大きく転換していく。
まさみさんは史典さんと交際中、小林家に遊びに行き、まさるさんの手料理を食べたことがある。
「筑前煮やお刺身……と、いろんな手料理が出てきましたね。筑前煮のこんにゃくが手綱にしてあったんですよ。当時、私は料理ができなかったので、すごいなって」












