疎遠だった元メンバーが余命宣告を

メジャーデビュー直後の東京少年(撮影/坂本正郁)
メジャーデビュー直後の東京少年(撮影/坂本正郁)
【写真】ファンを夢中にさせた『東京少年』デビュー直後の笹野みちる

 '03年、笹野は再上京して、吉祥寺に居を構えた。その土地がとても自分にフィットし、今でもこの界隈で暮らしている。

 中村さんに続いて、キーボードの水上聡さんも亡くなり、バンドメンバーとして最後に残ったギターの手代木克仁さんとは、'24年に「西東京少年」名義で事実上の再結成を果たした。そのきっかけは、手代木さんまでもが末期がんの余命宣告を受けたからだった。

「西東京少年は、彼が死を前にしたときのめちゃくちゃ初期衝動によるものでした。『俺、死ぬかも』って言われて。死ぬからやろうっていう人間の初期衝動を大事にしなくて、何を大事にするっていう。メンバーがひとり、ふたりと亡くなって、もうあのころに戻れないとか、やっと楽になれてよかったねとか、いろんな気持ちがありました」

 再結成にあたって、亡くなったメンバーたちの代わりに旧知の仲間が加わった。東京少年のプロデューサーを務めたホッピー神山(元PINK)は、プロデュースとキーボードを引き受けた。

「カミングアウトは、笹野自身が自分から率先して行動を取ったもの。そういう部分が彼女の等身大なので、重要な部分ではあるんです。世の中から色眼鏡で見られないためにも、強い意志でそのような人間像を取り上げなければいけませんし、私が笹野のカミングアウトのときのアルバムプロデュースを引き受けて、世の中に問う作品づくりをしたのも、いろいろな人種や考えがある中で、当たり前の人間像を映し出したかっただけ。

 私が笹野をデビュー時から彼女のパーソナリティーを理解して、音楽的な部分だけではない、笹野自身の人間像をわかりやすく世の中に伝えていこうとしたのは、音楽だけでは語れないと判断しての仕事だったわけです。

 私は、よくあるサウンドだけプロデュースする仕事人ではなく、パーソナリティーも十分に音と一緒にリスナーに伝えることによって、音楽というより人としての世界観を音に包んでリスナーに投げていくやり方ですので、やはり自分が笹野のプロデュースを多岐にわたってしたというのは、音楽だけでは語れないところなのです」(ホッピー神山)

 再びタッグを組んだ笹野と手代木さんは、バンド活動時は関係が冷めていたので、「あのころにもっと話をいっぱいしておけばよかったな」と話していたという。

 そんな手代木さんも、'24年11月に西東京少年最後のライブを行った同月に亡くなった。亡くなる2週間前のお見舞いでは、点滴を打ちながらも穏やかに笑って一緒に過ごせたという。現役時代になかった時間を持つことができたと、笹野は慈しんだ。

2025年3月にリリースした「西東京少年」の『Livein吉祥寺』のジャケ写(撮影/池田敬太)
2025年3月にリリースした「西東京少年」の『Livein吉祥寺』のジャケ写(撮影/池田敬太)

「メンバーと初めてつくったセカンドアルバムのタイトルにありますが、“原っぱの真ん中で”向き合って、もう一度彼らとやりたかった」

 前出の岩井監督が映像監修した、西東京少年最後のライブ音源と映像作品『西東京少年 Live in 吉祥寺(Limited Edition)』は、クラウドファンディングによって制作された。この作品には、笹野と手代木さんがファンに寄せたメッセージ動画も収めている。

「もうロックバンドを組むことはないけど、東京少年の曲はソロの弾き語りでもやっていきます。ギターは下手なので、最近、一般向けのギター教室に通って練習しています(笑)。 

 あとは、京都町内会バンドが来年で結成30周年。自分がつらかったときの拠りどころだったので、彼らとは、何かやりたいなと思っています。そこでも一緒にやっているベーシストの有田さとことは『ミチルンサトコ』というユニットも組んでいて、結成21年で昨年初めてアルバムを発売したので、こちらもいろいろやっていきたい。なんか、いろんな節目がいっぺんにやってきて。これって運命なんでしょうね」