“混沌の時代”若者たちのカリスマ的存在に
加藤さんが初めてラジオのパーソナリティーを務めたのは、文化放送の深夜番組『セイ!ヤング』。20代で著した『俺には俺の生き方がある』(大和書房)が若者の間でベストセラーとなったことで、白羽の矢が立った。'70年代初頭、番組は10~20代の学生を中心に爆発的な人気を誇り、加藤さんや、みのもんたさん、土居まさるさんら曜日ごとのパーソナリティーはスター的存在となった。
「当時は20代後半で、早稲田大学理工学部で社会学の助教授を務めていました。高田馬場のキャンパスで授業が終わるのが夕方5時半ごろ。放送のある日は夕食をとる時間もなく、四谷三丁目駅近くにあった文化放送のスタジオへ急いで向かっていました」
当初、局からは「小学生にもわかるような話をしてほしい」と求められた。だが加藤さんは「いや、僕は自分が話したいことを話すよ」と返したという。
「当時、大学では社会思想の講義を担当していました。その内容を、ラジオでもそのまま話すことにしたんです。手書きの講義ノートをめくりながらマイクに向かって語ると、若者たちがとても熱心に聴いてくれました」
リスナーから届いたハガキの中で、今も忘れられないものがある。
「俺は自殺することに決めた、という内容で、実行予定日まで書かれていました。その手紙をそのまま番組で紹介したんです。すると翌週には、多くのリスナーから手紙が寄せられました」
死んじゃダメだ、一緒に生きよう、といった励ましの内容だった。自殺予告をした本人は、「みんなの声を聴いて、死ぬのは思いとどまることにした」と、再び番組に便りを届けてくれたという。
「学生運動が時代を揺るがしていたころで、若者たちは混沌の中にありました。そんな彼らが、人とつながっていると実感できたのが深夜ラジオだったのでしょう。顔と顔を合わせると言えないことも、ラジオなら素直に表現できることもある。あの時代の深夜放送は、若者にとって大切なコミュニケーションの場でもありました」
番組の人気の高まりとともに、加藤さんは若者の間でカリスマ的な存在となっていく。学生に向け、学歴を過度に重視することの危うさや、人生の明暗を学歴に帰してしまうことの愚かさについても、繰り返し問題提起を行ってきた。こうした発信がメディアの注目を集め、テレビ番組『学歴社会を考える』(テレビ神奈川/'78年)では企画と司会を担当。番組はその後、放送批評懇談会のギャラクシー賞を受賞した。
「放送から50年がたち、日本の社会は何も変わっていないようにも見えますが、実はアメリカのほうがはるかに学歴社会です。それでも、アメリカでは学歴の有無が日本ほど重視されることはありません。
学歴はあくまで一つの属性に過ぎず、それがなくても社会で活躍している人はたくさんいる。それなのに、日本では学歴を自分の価値そのものだと錯覚し、うまくいかないことがあれば学歴のせいにしてしまう。そうした考え方が、結果的に自分自身を苦しめるのです」
ラジオやテレビへの出演が増え、多忙を極めていたこのころ、大学の講義にもテレビ取材が入るようになり、自宅前でカメラが待ち伏せしていることもあった。
「あまりの忙しさに、一人の時間も持てない。このままでは自分がダメになってしまうと感じました」
そんな折、ハーバード大学が研究員を募集しているという話を耳にする。マスコミに追われる環境から離れ、改めて研究に没頭したいと考え、応募を決意した。
「採用試験は非常に狭き門でした。研究計画を提出したところ、面接のために担当者がわざわざ来日したんです」
加藤さんには、東京大学大学院での忘れがたい経験がある。当時の指導教官は“マルクス主義にあらずんば、人にあらず”という考えの持ち主で、マルクス主義に懐疑的な加藤さんの研究を決して認めようとしなかった。論文審査の際、東大の審査委員長は「東大が正しいか、加藤諦三が正しいかは、いずれ時代が証明するだろう」と言い放ったという。加藤さんは博士課程への進学を断念し、早稲田大学の教員となる道を選んだ。
「恐ろしいことに、マルクス主義を学ばない者は人間ではないという価値観がまかり通っていた時代でした。それでも僕は迎合せず、自分の道を進むことを選んだんです」
ハーバード大学は、そんな選択をした加藤さんの研究を正当に評価した。見事、試験に合格し、ほどなく渡米。研究所を訪れると、自身の著書『人間であることの原点』(大和書房)が置かれているのを目にした。
「きみはこの本によって合格したんだよ、と言われたんです。東大では一蹴された僕の人生論の原点を、ハーバードは認めてくれた。うれしかったですね」


















