目次
Page 1
ー 2025年、最愛の母を亡くす
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ー 14歳でモデルデビュー。ロックに目覚め音楽活動
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ー 『下妻物語』で俳優デビュー。20歳で妊娠・結婚
Page 4
ー 騙されやすく、放っておけない人
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ー 家族・スタッフ一丸でがんの母を介護
Page 6
ー 子どもは「褒めるだけでいい」習い事の送迎で大忙し
Page 7
ー 一生音楽活動を続けて海辺で暮らすのが夢

 俳優、歌手、モデルとしてマルチな才能を発揮し、4人の子どもを育てる母親でもある土屋アンナ。ロックな外見から奔放なイメージを持たれがちだが、不良だったことはない。祖父は医療機器メーカーの創業者という家柄のお嬢様育ちだ。

2025年、最愛の母を亡くす

2人姉妹の次女として生まれた。母の眞弓さんと
2人姉妹の次女として生まれた。母の眞弓さんと

 2025年、マネージャーを務めていた最愛の母・土屋眞弓さんが膵臓がんで亡くなった。眞弓さんがしていた仕事を引き継ぎ、新しい体制を整えるため、土屋は悲しむ暇もなく東奔西走する日々だ。

 歌手の中村あゆみがオーガナイザーとなり、女性アーティストが集結する「Super Lady Festival 2026」(NHKホール・5月10日)への出演も控えている。眞弓さんが亡くなって4か月が過ぎた今、母との思い出やこれまでの仕事のこと、子育ての苦労、これからの夢を語ってもらった。

 1984年、日本人の母・眞弓さんとアメリカ人の父との間に生まれた土屋。アメリカで暮らしていたが、小学3年生のときに両親が離婚し、母と姉とともに日本で生活をすることになる。母の実家が裕福だったため、母子家庭とはいえ、お金に苦労することはなかったという。ただ母は礼儀作法に厳格で、幼いころは怖い存在だったと土屋は話す。

「箸の持ち方や食事中のマナー、大人が話しているときに口を挟んだりすると厳しく叱られました。ハーフの私たちが将来困らないよう『礼儀作法だけはきちんと教える』という強い思いがあったのでしょう。でも勉強については一切口出しされず、『宿題したの?』と言われたことは一度もなかったです」

眞弓さんや祖父母に厳しくしつけられたという
眞弓さんや祖父母に厳しくしつけられたという

 子どものころの土屋はスポーツ少女で、フィギュアスケートやバスケットボールに夢中だった。一方、学校では見た目の違いからいじめられることも多かった。運動会の際、「パパが来るかもしれない」と同級生に話したところ、結果的に来なかったことで「嘘つき」と呼ばれたことも悲しい経験だ。

「ママは私を周囲に同調させようとはせず、『違っていいの。嫌なことを言われたって放っとけばいいじゃない』という考えでした。ママのおかげでいじめに負けず、自分を肯定できるようになったんです」

 眞弓さんは言葉だけでなく、自らの行動でも「人は人」であることを示し続けていた。学校の保護者会に真っ黒な服にサングラスという姿で登場し、周りから浮いていてもお構いなしだったという。

「ママは品格はあるのに破天荒なんです。あるとき男の子たちが『アンナのママ、カッコいいよね』と言っているのを聞いて、『違っていることは、カッコいいことなんだ』と捉え方が変わりました」