24歳でフランスへ
高校3年生のとき、病弱だった母が東京の病院へ通院するため上京、世田谷区弦巻で一緒に住み始め、大学は東京大学と慶應義塾大学を受験した。
「学校の親友たちがみんな東大を受けるもんだから、一緒に受けたんですが、もう全然話にならなかった」
現役で慶應に合格したものの、翌年東大を再受験するため浪人。しかし翌年も同じ結果となり、慶應義塾大学経済学部へ入学する。偶然にも友人の住田も同じ大学、同じ学部だった。
「慶應の私のクラスには女子が一人で、周りに女性がいなかったんです。なので絵を描くクラブならいるんじゃないかなと思って入ったんですが……男のほうが多かった(笑)」
そこで知り合ったのが、NHK連続テレビ小説になった『おはなはん』の原作者である随筆家の林謙一さんの子息だった。その彼はとても絵が上手だったという。
「よく林の家へ行って、一緒に食事をしたりしました。彼は絵は上手なんだけど、スポーツが苦手でね。テニスなんかを一生懸命教えていたんですよ」
この出会いが岸をフランスへと導くことになる。大学卒業を控え、新聞社の入社試験を受けた岸だったが不採用に。大学卒業後、林に相談したところ「おまえはどこかやんちゃだし、バカみたいなところがあるから、海外行ってこいよ」とすすめてくれたという。
「林さんは『どうせおまえなんか、日本にいてもしょうがないからな』と。ずっと私のことを見ていたからでしょうかね。私は海外という考えは持っていなかったので、どこがいいのか聞いたら、『フランスだよ』と。それで『それいいな』と思って」
1968年、24歳の岸は林のすすめでフランスの貨物船に乗り、各地へ寄港しながら7か月かけてパリに着いた。船には日本人は一人きりで、フランス語の基礎を学びながら船長らと食事を共にしたことで簡単な会話なら聞き取れるように。
到着後、フランス東部の街ブザンソンで本格的にフランス語の勉強を始めたが3か月ほどしたころ、母死去の電報を受け取り、慶應の同級生で航空会社に就職した友人のつてにより飛行機で一時帰国、山形へと向かった。一人息子の岸だったが、進路について父からは何も言われなかったという。
「小さいときから親父と食事を共にしたことが数えるほどしかないんですよ。議員の仕事で山形市にいて、おふくろが病弱で負担になるのでほとんど金山にも帰ってこなかった。でも親父は私が小さいときから『家を残さなくてもいい』と言っていたんです。金山にいなきゃいけないということも言わなかった。そういうところは、私と似てるなと思いますね」
半年ほど日本に滞在した岸は、パリに戻って勉強を再開した。
「日常会話くらいはできるようになったけれど、仕事がなくて、何しようかと思ってぶらぶらしていたころ、銀行に預金口座をつくりに行ったんです。するとそこでフランス語を話せない外国人が窓口で困っていたので、下手なりにフランス語の通訳をしてあげたら『世話になったから、喫茶店でお茶でも飲もう』と誘われて。
その人、イギリスからパリへ異動してきたばかりで英語はできるけれどフランス語はまだこれからっていう共同通信社の支局長だったんです。そうしたら『仕事やらないか?』と誘われて。私は新聞社を落ちてますからね、入りたくてしょうがない(笑)。それでパリの共同通信社で働くことになったんです」
フランスでは、日本から留学していた日本人ともたくさん知り合ったという。そんな中、共同通信社に臨時アルバイトで来た日本人女性と知り合って結婚。岸が28歳のときだった。やがて子どもも生まれ、帰国を考えるように。
「友人たちが帰国して、私も女房子どもがいて、ちょうど支局長が代わるタイミングもあって。日本へ帰ることを考えたときに、ちらっと山形へ戻ることも考えましたよね」
フランスでの生活が7年を過ぎようとしていた1975年、共同通信での仕事を辞め、妻子を連れて帰国した岸だったが、日本へ戻って何をするのか、頭の中には何の考えもなかった。


















