目次
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ー 桑田佳祐もカバーした代表曲
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ー 1世紀に1人出るか出ないかの方
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ー 人生相談の悩みに「寝言を言うな」

 6月20日、美輪明宏さんが老衰のため91歳で死去したことが、同月28日に個人所属事務所の公式サイトで発表された。

《こんな世の中を生き抜く武器は愛の言葉しかありません。この世のすべての問題を解く鍵は愛です。愛があれば戦争なんか起こりません》

 という美輪さんが生前に綴った直筆のメッセージも公式サイトに掲載された。

「美輪さんは、歌手、俳優、文筆家、演出家など多方面で活躍。また、オーラや前世といった“スピリチュアルな分野”でも存在感を示し、若い世代にも広く知られていました」(スポーツ紙記者、以下同)

 そうしたきらびやかな活動とは対照的に、その幼少期は過酷だった。

「1935年に長崎県で生まれた美輪さんは母を早くに亡くし、10歳のときに戦争で被爆。多くの親族や友人を失うという経験をしました」

 終戦後、音楽への思いを胸に15歳で上京して現在の国立音楽大学附属高等学校に入学も、その後に中退。銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」で歌うようになったことが、芸能界入りのきっかけとなった。

「1957年にはフランスのシャンソン曲『メケ・メケ』を日本語でカバーして、丸山明宏の名義で発表。中性的な美貌と美声で“謎のシスターボーイ”とも呼ばれ一躍、脚光を浴びるようになりました。当時はタブー視されていた同性愛者であることを公言するなど、今でいえば“多様性”の先駆けのような存在でした」

桑田佳祐もカバーした代表曲

美輪明宏名義に変えたレコードのジャケット。神武以来の美少年と注目された
美輪明宏名義に変えたレコードのジャケット。神武以来の美少年と注目された

 華やかな世界に身を置きながらも、社会の片隅で懸命に生きる人々へのまなざしを持ち続けていた美輪さん。その信念が形になったのが、1964年に発表した代表曲『ヨイトマケの唄』だった。

「炭鉱町で公演を行った際、安くないチケットを購入し、会場を埋めた労働者たちの姿に胸を打たれたことが、曲作りのきっかけになったといわれています。貧しい家庭に育ちながら、母親の懸命な働きで進学を果たした知人の姿も重ねられました。ただ、歌詞の“表現”が問題視され、長らくテレビの放送では“扱いづらい存在”に。それでも桑田佳祐さんや氷川きよしさんら多くの歌手にカバーされ、今なお歌い継がれています」(全国紙記者、以下同)