仕事ですれ違う2人の間を取りもった出産
「相変わらず彼は無職無収入。“どうせ半年も持つわけがない”といった、世間の噂も私たちの耳に入ってきました」
しかし奥田と和津の運も結婚して3か月たったころからツキが回り始めた。奥田は藤田敏八監督の映画『もっとしなやかにもっとしたたかに』と東陽一監督の映画『もう頬づえはつかない』のオーディションに挑戦。
子ども番組のお兄さんから脱皮する、最後のチャンスをものにする。さらに和津はラジオ番組『久米宏の土曜ワイドラジオTOKYO』(TBSラジオ)のリポーターに選ばれると、NHKのテレビ番組、ニュースワイドの中の関東甲信越ローカル番組『フレッシュロータリー』の中継リポーターにも抜擢される。
「起床は朝の4時。ロケ場所の移動が売り物だから、今日は横浜、明日は長野、明後日は新潟という具合で衣装とメイク道具の入った荷物を抱え、流浪の民のような生活を送りました。土日を除き、ほとんど地方回りで不在の私に不満がたまった彼は“来年もこの仕事を続けるなら離婚を覚悟しろ”というところまで鬱憤がたまっていました。
でも仕事の充実感や面白さを覚え始めたころ。仕事は辞めたくありませんでした」
そんな2人の、行き違う思いがぶつかり合う日がやってきた。NHKの特番で1週間、家を空け、大荷物を抱えて倒れ込むように帰宅してみると、立ちすくむほど家の中はものが散乱していた。
最後の力を振り絞り、夕食の支度をしても奥田は連絡一本よこさない。
深夜になり怒りは頂点、テーブルの上の料理をゴミ箱に投げ入れ、ベッドに倒れ込んだ。数時間後、奥田が帰ってきた。
「めしはないのか?」
「頭痛くて無理」
「おまえ女房だろ」
と言われ、キレた和津は、目覚まし時計をつかむ。すると奥田がそれを引ったくって壁に投げつけ、部屋の中にあるありとあらゆる物が壁へ飛ぶ。それでも足りず、加湿器を窓ガラスに力いっぱい投げつけた。ガラスの破片が床中に飛び散った。
「こんな家、二度と戻らない」
と吐き捨て、出ていこうとしたこともあった。そうかと思えば酒に酔い、和津のお腹に頭をすり寄せ、
「早く子どもが欲しいよ」
と叫ぶこともある。なのに妊娠を伝えても、和津の妊娠期間中、目の前に映る彼は徐々に冷淡になっていき、最後の1か月は泥酔状態で朝帰りだった。
「子どもが生まれたら、否が応でも“父”としての責任を負わなければならない。遅れてやってきた彼の青春は“父”になれば、あえなく終わってしまう。要するに自分勝手な子どもなんです」
和津はすべての感情を吐き出す手紙を書くと、彼のベッドに上に置いてまどろんだ。目を覚ますと、彼の書斎の扉に墨で書かれた大きな張り紙を見つけた。
《父となるためにあれこれと言われなければならないのなら、父であることを放棄する》
「これを見て私は絶望的な気分に陥りました。同時にこんな父親いらない、生まれたら別れようと」
運命の1982年3月19日。長女・桃子が誕生。
すると彼は、私の両手を握って「よく頑張ったね。ありがとう」と言って目に涙を浮かべた。
「初めての赤ちゃんの存在と、彼のこの言葉ひとつで今までの憎しみや失望も何もかも払拭されました」
この時を境に2人は夫婦から家族へ、またひとつ人生の階段を上った。



















