紅白歌合戦の司会を5回務めたことも

 大手財閥の家系である、裕福な家庭の一人娘として東京に生まれた。

「両親が幼いころに離婚したこともあって、母方の祖母に厳しく育てられました」

 母や叔母の影響もあり、洋楽や駐留米軍向けのラジオ放送が常に流れている環境で、ジャズにロック、カントリー&ウエスタンなどを聴いて育った。16歳で当時のジャズボーカリストの重鎮、故・水島早苗さんの門下生となり、大学の卒業論文は「ジャズの歴史」とくれば、歌手志望だったのかと思いきや、夢はテレビ局への就職だった。

「音楽番組のプロデューサーになりたかったんです。制作をするうえで、歌う側の経験もするべきと思ってNHKの新人オーディションを受けたのがデビューのきっかけでした。それと、私が卒業した年、第1志望だったフジテレビでは女性のプロデューサーの採用がなかったこともあってね」

 歌唱力と度胸を買われ、程なく歌手としてデビューが決まった。厳しい祖母も、孫の決心を支えてくれた。

「芸能界に入ると告げたときは『親の死に目に会えると思いなさんな』と言われました。でも、『おまえを出世させるために、私はおじいさんに仕えたのと同じようにおまえの世話をする』と言って、深夜の2時、3時に帰っても、ちゃんと着物を着て待ってくれていましたね。明治生まれの女はすごかったですね」

1972年、『第23回NHK紅白歌合戦』の司会発表記者会見にて。白組司会で当時NHKアナウンサーだった故・宮田輝さんと佐良直美
1972年、『第23回NHK紅白歌合戦』の司会発表記者会見にて。白組司会で当時NHKアナウンサーだった故・宮田輝さんと佐良直美
【写真】紅白司会を5回経験! レコ大新人賞を受賞したころの佐良直美

 1967年(昭和42年)にデビュー。ボーイッシュなショートヘア、圧倒的な透明感をたたえた丸顔につぶらな瞳、パンツスーツを華やかに着こなして歌う彼女の姿は、それまでのアイドル像を覆した。華のあるたたずまいに、理知的かつ天真爛漫。豊かな低音と聴く者の心に訴えかける歌声は、天賦の才と、少女時代から受けたジャズのレッスンの賜物だった。

「昔はファンの元気がよすぎるというか、楽屋に平気で押しかけてきたり、移動中にキャーッと寄ってきて着ているものや貴金属を剥ぎ取っちゃう、なんてこともあったから、トランクに隠れて移動したこともあったわね。デビューから半年は1日2〜3時間くらいしか眠れなくて、よく生きてこられたと思いますよ」

 デビュー曲『世界は二人のために』は120万枚のセールスを記録、その年のレコード大賞新人賞を受賞。同年から13年連続出場した『NHK紅白歌合戦』では後に司会を5回務めるが、これは紅組史上最多だという。

「紅白の司会でいちばんつらかったのは、かかと! 5時間立ちっぱなしでしょう? かかとが痛くなるんです」

 事前に担当する紅組の歌手とその歌唱曲について丹念に調べ、自ら考えた曲紹介の口上を手帳に書き込んで挑んだ。かつ、生放送は何が起きるかわからないから、長短の2パターンを作り、暗記した。

「紅白では、司会者も途中で衣装替えをするでしょう。常にてんてこ舞い。時間がもったいないからって、顔出しパネルを用意されたこともありましたね(笑)」