「僕ちょっと女性が苦手だな思う瞬間があって、母親のこともあるのかもしれないんですが、今でも覚えてることがあって。

 小5のとき、学校で弁当の日があって、僕、近所の総菜屋で買った肉団子を自分で弁当箱に詰めていったんですよ。いかにも母親の手作り弁当だって感じに。そしたら同じクラスの女子が“あ、それどこどこの総菜屋のやつだよね”って言ったんです。

 その瞬間、初めて人前で泣きましたね。人生で人前で泣いたのは後にも先にもそのときだけでした。悔しかったのか、なんで泣いたのか、今でも自分の感情がよくわからないんですけど、やっぱなんか図星つかれてショックだったんだと思います」

 勇さんは、“娘”を守らなければいけないという使命感と、そうあることで目の前にいる母親を受け入れる心を育てていったのです。幼少期から大人であることを求められ、子ども時代がなかった勇さんは、やはりどこかで「母親」または「親」に憧れ、“子どもらしく愛情を受けてみたい“という心の奥の扉をノックされて涙があふれたのかもしれません。

入院したら母が「いつから働けるの?」

「高校生のとき、建築関係の仕事のアルバイトをしていて、仕事中に骨折して入院したときに母親が病室に来たんですけどね。なんて言われたと思います? “いつから働けるの?”ですよ(笑)。でも僕、娘だから仕方ないよなって思って、“ごめんごめん、すぐ仕事するから”って答えてましたね」

 こんな状況下にいたらやさぐれたり、暴れたりしてしまうものだろうと思ってしまいがちですが、勇さんの場合、常に冷静でさらには希望を忘れないという芯の強さがとても印象的でした。

 それはやはり、幼少期に自分で入れた「親は守ってくれるものではなく、“娘”だ。自分が守らなければいけない」という早熟精神のスイッチなのかもしれません。自己防衛の最たるものだとその精神性の高さにただただ感心すると同時に、胸が痛くなり、目頭が熱くなる思いでした。

「本当は大学にも行きたくてめちゃめちゃ勉強したんですが、服なんて1度も買ったことなくて毎日同じ服を着てるくらい貧乏でしたので、諦めるしかなかったですね。なのでなんとかバイトしながら高校は出たんですが、卒業後は高校時代からバイトしてた仕出し屋でそのまま仕事を続けました。

 とにかく生活を支えなければいけなかったですし、その頃から母の幻聴もひどくなり、統合失調症と診断されたので治療費も稼がなければいけなくて1日も休まず仕事しましたね。ほかにも、仕出し屋の仕事の前後の時間には朝に新聞配達とか、夜は工事現場とか……とにかく働きまくりました」