しかし、今は磨き終われば会話もそこそこ、すぐに帰っていく人ばかり。

「みんな忙しくなったのか、早く家に帰らなきゃいけない人も多いんでしょうね」

 足早に駅に向かっていく人の流れを眺めながら寂しそうにつぶやいた。

家出同然で上京、ドラマのような半生

 そんな中村さんの半生も波乱に満ちていた。

 1931年(昭和6年)警察官の父と看護師の母のもとに、6人きょうだいの3番目として静岡県浜松市で生まれた。

「戦争中は父やきょうだいを残し、母と2人で母方の親戚の家に疎開したの……」

 寂しかった幼少期を思い出し、眉間にしわを寄せた。

 14歳で終戦を迎え、18歳でヤマハ(日本楽器)に入社。東京に仕事へ行った父の話を聞くたびに、東京への憧れを強く抱くようになった。

「“東京っていうのはお前たちが行くところじゃない、お金がないとやっていけない”とよく言われました。でもそんなことは耳に入ってなかった。とにかく東京が見たかったんです」

 '50年(昭和25年)、19歳の中村さんは小さなトランクと1万円足らずの現金のみを持って東京行きの夜行列車に飛び乗った。家族には内緒で、家出同然の上京だった。

 夫・薫さん(故人)と出会ったのは27歳のとき。

 公園で休んでいたときに数人の酔っぱらいの男にいじめられたところをかばってくれたのがきっかけだった。

「杖をついた男性が、何人もの男を相手に1人で追い払ってくれたの。それが主人。足が悪いのに私をかばってくれて“この人すごい人だな”“優しいな”って」

 まるでドラマのワンシーンのような邂逅。その後、映画などのデートを重ねるうちに、一緒になることを決めた。

 だが、中村さんにとって、薫さんとの結婚は事実婚を含めると3度目。

 1度目は、上京してすぐのころに上野で出会った、17歳年上の人。男性との間に子どもができたが、彼には妻子がおり、道ならぬ恋だった。

 2度目は浅草の靴職人。入籍したが、酒癖が悪く結婚生活は長くは続かなかった。その夫との間にも子どもが1人。2人の幼子を連れての再婚だった。

 薫さんは大学卒業後、都内で税理士をしていた。5歳のころにポリオ(小児まひ)を患って以来足を悪くし杖をついて生活している。さらに、糖尿病のため思うように働けず、収入は安定しない。

 そのため中村さんが大黒柱として家計を支えなくてはならなかった。家族は夫と姑、それに子どもが5人の計8人。中村さんの小さな肩に生活がのしかかっていた。

 靴磨きを始めたのは40歳のときだった。

「果物のリヤカー引きで家族を養っていましたが、肉体労働への限界を感じていたの」

 そんなとき、果物をよく買ってくれていた靴磨きをしていた女性から“子ども5人もいるなら、靴磨きやんなさい。あなたならできるわよ”とアドバイスをもらい、この世界に飛び込んだ。