15年耐えたキャバレー回り

「物心ついたころから、歌が好きだった」という小林。新潟で生まれ育った少女は、幼いころ歌の才能を見いだされ、わずか10歳でデビューを果たし、上京。デビュー曲こそ話題になったが、その後はヒット曲に恵まれず、15年もの間、不遇の時代が続いた。

「歌手をやめたいと思ったこともありましたが、やめられなかった。というのも、新潟の両親とふたりの姉が私を頼って上京していたから。いつの間にか私が大黒柱になっていて、家族の生活を支えるためには歌い続けないといけなかったんです」

 時は高度経済成長期の真っただ中。夜は、酔客が集うキャバレーが小林の仕事場になった。そのステージで披露していたのは演歌だけではない。シャンソン、ジャズなど、リクエストされれば何でも歌ったという。

「キャバレーのお客さんは、お酒を飲むために来ているのであって、私の歌を聴きに来ているわけじゃない。どうやったら聴いてもらえるか、興味を持ってもらえるか、そればかり考えていました。だから、知らない曲をリクエストされても『歌えません』とは言いたくなかった。ピアニストにどのような曲なのかこっそり聞いて、即興で披露するなんてこともありました」

 並行して全国各地のレコード店やショッピングモールでのキャンペーン、手売りでのレコード販売も行っていた。

「キャンペーンでは、歌い終わって、いざ『これからレコードを販売します!』となると、蜘蛛の子を散らしたように人が去っていって、足元には捨てられた歌詞カードだけが落ちているなんて光景も何度も目にしてきました」

17歳、全国のレコード店を回り、手売りで販売をしていた

 当時の小林の様子をそっと見つめていた人物がいた。今は友人として親しく付き合っている夏木マリ(69)だ。

「このころ、幸子さんが福岡の空港で、1人で衣装を持ってタクシーを待つ姿を見かけたことがあります。私も同じようにキャバレー回りをしていた時代だったので、親近感を覚えました。そのときは、お話ししたことがなかったので声をかけませんでしたが、幸子さんの姿と自分を重ね合わせて “私たちは、いつトンネルを抜けられるんだろう”と感じたものです」

 長く続いた暗いトンネルにひと筋の光が差したのは、25歳のとき。シングルレコードのB面だった『おもいで酒』が有線放送のランキングで1位になったのだ。

「でも、『おもいで酒』のキャンペーンをやろうというレコード会社の提案は断りました。これまでキャンペーンで人が集まらなくてさんざんな思いを経験してきたから、その痛みをまた味わうのかと思うと心が折れそうで……」

恩師で作曲家の古賀政男先生と

 そんなとき、一緒にショーに出ていたダンサーの女性の言葉が頭をよぎった。

『“諦める”は、“明らかに極める”こと。極めるぐらい徹底的に頑張って、今回が最後だと思って未練がなくなるまでやってみたら』と言われたんです。その言葉に背中を押されてキャンペーンを始めたら、これまでとはまったく違う景色が待っていました。

 
大勢の人たちが私の歌を聴くために集まってくれたんです。ダンサーさんの言葉を受け入れていなければ、あの光景を見ることはできなかったでしょう」

 その年には、紅白歌合戦に初出場。その後もヒット曲を連発し、紅白での豪華衣装をはじめ、日本の演歌界になくてはならない存在に。しかし、デビューから半世紀を迎えようとしていた'12年、人生の大きな岐路が彼女を待ち受けていた。