「東京の空が真っ赤だった」

 まさに峠の茶屋と駆け込み寺がミックスされたような、ぬくもりと安心感のあるヒルマ薬局。実は、創業100年近い老舗だ。

 榮子さんの父が大正12年(1923年)に豊島区で開業。同年に生まれた榮子さんは薬剤師である父の背中を見て育った。

 4人姉妹の長女の榮子さんは女学校を卒業し、'41年に東京女子薬学専門学校(現・明治薬科大学)に進んだ。その年の暮れに日本は真珠湾を攻撃し戦争に突入する。

「当時は女学校を出るとお茶やお裁縫を習ってお嫁に行くのが普通だったけど、軍需工場ができて女性も勤めるようになってきたの。それで私は漠然と、薬のことを勉強したら何かの役に立つかなと。父に薬剤師になれと言われたことはないけど、自分で決めたんです」

 '44年に卒業して製薬会社に勤めたが、戦争は激しくなる一方。米軍爆撃機B29が頻繁に偵察に飛んでくるようになり、父の故郷である長野県上田市に母や妹たちと疎開した。

 ぎゅうぎゅうの信越線に乗り6時間かけて父の実家に到着。その2日後、夕飯を食べて妹と外に出ると、東京方面の空が真っ赤だった─。

窓の外を指さし、「空が真っ赤だった」と東京大空襲の記憶を思い起こす榮子さん 撮影/伊藤和幸
【写真】ギネス記録証を手に、挑戦し続ける榮子さんと康二郎さん

「夜なのに星も見えない。オレンジっぽいようなきれいな赤一色なの。音は何も聞こえないから、まさか東京への空襲とは夢にも思わなくて……。そのとき父はまだ東京にいたんです。逃げる途中で目の前に焼夷弾(しょういだん)が落ちて、もろに当たった人がバタッと倒れたけど、助け起こす人は誰もいない。みんな自分が逃げるのに必死だったと言ってました。戦争は本当に怖い。二度と起きてほしくないと思います」

 そのまま終戦を迎える。お金があっても役に立たず、食料は物々交換でしか手に入らない。薬品のサッカリンは砂糖の代用品として使われていたので米と交換したり、慣れない畑仕事をして野菜を作ったりして、日々生き抜くのに精いっぱいだった。