崖っぷちの時代

 社長である西村を含め社員はたった3人。事務所は、渋谷の南平台にある雑居ビル。給料が支払えず、後ろ倒しすることも珍しくなかった。崖っぷちの時代、共に働いていた中島毅雄さんは、「大変でしたが、自分を成長させてくれる1年間でもあった」と振り返る。

 中島さんは慶應義塾大学卒業後、自らも起業を決意し、ベンチャー企業だったインターコミュニケーションズに1年間限定で在籍する。

「当時は、ビジネスを立ち上げる人自体が珍しい時代」と語るように、三木谷浩史氏がエム・ディー・エム(現楽天グループ)を設立したのが'97年。藤田晋氏がサイバーエージェントを設立したのが'98年だった。

「起業をした人と一緒に働きたくても、ほぼいません。この時代に起業をしている人は異端児で、西村社長も例に漏れない(笑)。起業を目指す自分にとって学べる機会だと思ったんですね」(中島さん)

 だからこそ、当時、希少種ともいえるベンチャー企業に対して金融機関も営業先もいぶかしげに扱ったわけだが、こうした状況を打開するために、中島さんは右腕となって奔走した。西村が懐かしそうに回想する。

慶應大卒なのに、業績も良くない僕の会社で働いてくれたことに感謝しかない。彼が開拓してくれたおかげで、数珠つなぎで大企業の契約を取ることができ、海外用レンタル携帯電話事業は軌道に乗り始めます。彼は、『社長からはったりのかまし方を学ばせてもらった』なんて言いますが、彼がいたからはったりが言えたんです(笑)

高須クリニックの高須克弥院長と
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 中島さんは約1年で会社を去ると、宣言どおり起業する。メールマガジンの広告事業を柱とした中島さんの会社は、その後、あのホリエモン率いるライブドアに売却することで、億単位の資金を手にするまでになる。目を細めながら、西村が続ける。

うれしかったですよ。同級生から、『なんであんな会社に入ったんだ』とバカにされた中島が、若くして大きなお金を手にして見返したことが

 中島さんもまた、異端児の一人だった。

 現在、中島さんは、「チアチームプロデュース事業」などを手がける会社を運営し、京王線・中央線・西武線沿線を中心にダンススタジオを構える。同じく社長である中島さんに、「これほどまでに西村社長が有名人になると思いましたか?」と尋ねてみた。

 若干の間があって、「思わなかったですよ」と笑う。

「ただ、時代を読む力、先見の明の持ち主であることは間違いないです。だからこそ、携帯電話と通信技術が進化する中で事業を拡大することができたのでしょう」(中島さん)

 借金は30歳のときに完済した。名もない自分に3000万円を貸してくれた義理の父母とは、一緒に暮らしているという。

「この恩は一生忘れない」。約30年前の約束は、できすぎなくらい実を結んだ。

西村誠司 撮影/廣瀬靖士
西村誠司 撮影/廣瀬靖士