目次
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ー 秋篠宮ご夫妻は結婚35周年の節目 ー 「あのとき出会わなければ、現在でも独身だった……」
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ー 2人の内親王に恵まれ、公務と子育てに多忙な日々 ー 41年ぶりの男子・悠仁さま誕生による波紋
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ー 「関心のあることを深めてほしい」ご一家の教育方針 ー 上皇さまが退位。皇位継承順位第1位の「皇嗣」に
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ー 眞子さんの結婚だけではない、バッシングの根本
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ー 歴史の節目に立つご一家に、待ち受ける未来とは

 戦後80年という大きな節目の年にあたる今年5月26日、第2次大戦中に海外などで亡くなった身元不明の戦没者を慰霊する拝礼式が、東京都千代田区の千鳥ヶ淵戦没者墓苑で行われ、秋篠宮ご夫妻が参列した。墓苑には、身元が不明で、遺族に引き渡すことができない戦没者の遺骨が37万1008柱、納骨されている。ご夫妻は、そろって納骨堂の前まで進み、深々と拝礼した。

秋篠宮ご夫妻は結婚35周年の節目

「結婚の儀」に臨んだ秋篠宮さまは束帯、紀子さまは十二単におすべらかしの装い(写真/宮内庁)
「結婚の儀」に臨んだ秋篠宮さまは束帯、紀子さまは十二単におすべらかしの装い(写真/宮内庁)

 秋篠宮ご夫妻もまた、今年6月29日、結婚35周年の節目の年を迎える。さらに秋篠宮さまは11月30日の誕生日で60歳の還暦となる。次の天皇である皇嗣として、秋篠宮さまは、兄の天皇陛下を支えながら、年々、その存在感を増している。

「公的な活動についてですが、大学在学中は学業を優先させていただきながらにはなりますが、少しずつ携わっていくことになると思います。周りの方々からご助言を頂きながら、一つひとつに丁寧に取り組み、成年皇族としての自覚を持ち、皇室の一員としての役割をしっかりと果たしていきたいと思っております。

 これまで、天皇、皇后両陛下や上皇、上皇后両陛下が、公的なお務めにお心を込めて取り組まれているお姿を拝見し、また、お話を伺う機会もあり、大切なことを学ばせていただいてまいりました。また、両親や姉からも、実際に行事に出席した方や、訪問先でお会いした方々のお話を聞き、また、その土地の文化や風土についての話も聞き、ときには両親に同行することによって、活動のあり方を間近に見ることによって、学んできました」

 今年3月3日、秋篠宮ご夫妻の長男、悠仁さまが、初めて記者会見を行った。昨年9月6日、悠仁さまは18歳の誕生日を迎えた。民法の改正で成年が18歳に引き下げられたため、成年皇族の仲間入りを果たしていたが、大学受験を控えていたこともあり、成年会見などは延期されていた。

 念願の筑波大学生命環境学群生物学類に見事、合格し、今年4月から大学生となることが決まったこともあり、この日の記者会見となった。

 皇位継承順位第2位の悠仁さまは記者から、今後、成年皇族として公的な活動にどのように取り組むのかを尋ねられ、前述したように答えた。

 スーツにネクタイ姿の悠仁さまは、終始、落ち着いていて、記者の質問に対して、一語一語、丁寧に受け答えた会見で、多くの国民から称賛する声が相次いだ。

 6月4日から17日まで次女、佳子さまは南米ブラジルを公式訪問した。今年は、日本とブラジルの外交関係樹立130周年および、日本ブラジル友好交流年でもあり、ブラジル政府からの招待を受けての訪問だった。

 佳子さまの外国への公式な訪問は、2019年のオーストリアとハンガリー、'23年のペルー、そして、昨年のギリシャに続き、令和に入り4回目となる。華やかな容姿に笑顔が映える30歳の佳子さまは、国内外で人気が高い。ブラジルでは、首都ブラジリアやサンパウロなどを訪れたが、晴れ着姿の佳子さまは日系の方々やブラジルの人たちから大歓迎を受け、日本とブラジルの友好親善を促進するという大役を立派に果たした。

 このように、秋篠宮ファミリーは、今や令和皇室の中で、極めて重要な役割を担っている。ご夫妻ばかりでなく佳子さまや悠仁さまも天皇、皇后両陛下を盛り立てながら、国民との絆をさらに深めていくことだろう。

 35年に及ぶ秋篠宮ご一家の歩みを振り返りながら、今後10年先、20年先の皇室に深く思いをはせてみたい。

「あのとき出会わなければ、現在でも独身だった……」

秋篠宮さまとの婚約発表後、紀子さまは一躍、時の人に。ご結婚の日まで連日、通学風景などをマスコミが追いかける「紀子さんブーム」に
秋篠宮さまとの婚約発表後、紀子さまは一躍、時の人に。ご結婚の日まで連日、通学風景などをマスコミが追いかける「紀子さんブーム」に

 まず、個人的な思い出から書き起こしてみよう。秋篠宮ご夫妻は1989年9月、皇室会議で2人の婚約が正式に決定し、翌'90年6月29日に結婚して秋篠宮家を創立した。

 ここに秋篠宮家が、船出をしたのである。私が、紀子さまの父親である川嶋辰彦・学習院大学名誉教授(故人)と初めてお会いしたのは'87年夏ごろだったと思う。ご夫妻が結婚する3年近くも前のことだった。

 私の妻が大学を卒業した後、学習院大学経済学部で副手をしていた。当時、彼女は辰彦氏の資料整理などの手伝いをしていた関係で、結婚を控えていた私と妻は、辰彦氏と学習院大学にある川嶋研究室で懇談した。壁に沿った本棚には専門書などがぎっしりと並び、机の上には、書籍や資料、郵便物などがうず高く積まれていた。

 そんな中にあって、子どものころの紀子さまと弟の舟さんが一緒に写ったカラー写真が壁に飾られていて目を引いた。初対面にもかかわらず、16歳も年少の私に対しても終始、笑顔で、敬語を交えながら丁寧に接してくれた。辰彦氏の謙虚で穏やかな人柄に私はすっかり魅了された。

「そう、あのとき、出会わなければ、私は現在でも独身だった可能性があります」

 秋篠宮さまが、今でもこう熱く振り返るように、紀子さまとの出会いは運命的なものだった。'85年5月、学習院大学法学部2年生の秋篠宮さまは、文学部に入学したばかりの紀子さまと大学構内の書店で初めて会った。紀子さまと出会ってすぐに、当時、ご家族と暮らしていた東宮御所に紀子さまを招き、自分の両親である上皇ご夫妻に紹介した。

 その後も紀子さまは東宮御所を訪れ、上皇さまや上皇后さまとテニスを楽しみ、お茶の席を共にした。上皇ご夫妻は、「キコちゃん」と親しく呼んで、とてもかわいがった。また、紀子さまは、秋篠宮さまが小学校時代の友人らと一緒に始めた大学のサークルである自然文化研究会に入会し、全国各地を仲間と共に訪れながら、2人は、徐々に愛を育んだ。

 そして、'86年6月、学習院大学近くの交差点で秋篠宮さまは、紀子さまにプロポーズした。初めて出会ってからわずか、一年余のことだった。後から振り返ると、私が辰彦氏と会ったのは、2人が結婚に向けて着実に歩みを進めていたころだったが、もちろん、私も妻もそんな事情などまったく知らなかった。新聞報道などで2人の結婚を知り、それこそ腰を抜かさんばかりに驚いた次第である。

独身時代にデートを楽しんだ場所を訪れた、新婚時代の若々しい2人
独身時代にデートを楽しんだ場所を訪れた、新婚時代の若々しい2人

 秋篠宮ご夫妻が結婚したころ、私は記者として毎日新聞京都支局に勤務していた。

 紀子さまの両親である辰彦氏と妻、和代さんと親しかったこともあり、私は、東京に出張して結婚取材を手伝っていた。

 結婚式直前の'90年5月、学習院大学の研究室で紀子さまの両親に、私はインタビューした。辰彦氏が取材で、娘の結婚についての心境を素直に語ったことはこれが最初で最後ではなかっただろうか。その一部を『秋篠宮家創立、おめでとう礼宮・紀子さま』(『毎日グラフ臨時増刊』'90年7月14日発行)から、紹介してみよう。

 私は、「紀子さんが、皇室という遠い世界に行ってしまうというお気持ちはございませんか」と、尋ねた。この質問に対し2人は、次のように答えている。特に、和代さんは母親としての戸惑いや思い悩む気持ちを、包み隠さずに打ち明けてくれた。
《『遠くへ行ってしまう』とおっしゃいましたが、そんなに遠い所なのでしょうか》(辰彦氏)

《それはあなたらしいおっしゃり方ですけれども、私の気持ちは少し違っております。全く未知のものではございませんが、そうかと申せ、ときどき流れてくる情報だけではわからない面もないわけではございません。不安が全くない、と申すのは当たらないと存じます》(和代さん)

 紀子さまと家族が暮らしていた学習院職員の共同住宅は、大学に隣接していた。自宅から研究室まで歩いてわずか数分の距離で、辰彦氏は一日の大半を研究室で過ごしていた。

 私も何度か訪れたが、古いアパートにはエレベーターはなく、紀子さまたちは自宅まで、毎日、階段を利用して上り下りした。結婚が決まり、若く愛らしい紀子さまは大人気となり、「3LDKのプリンセス」と呼ばれたりもしている。