2人の内親王に恵まれ、公務と子育てに多忙な日々

日本舞踏の発表会を訪れた紀子さまと、当時11歳の眞子さん、8歳の佳子さま
日本舞踏の発表会を訪れた紀子さまと、当時11歳の眞子さん、8歳の佳子さま
【独自写真】“花柄ワンピース”で圭さんとデートする9年前の眞子さん

 1990年6月29日、結婚式当日の朝も紀子さまと両親、弟は、共同住宅にある自宅から屋外に階段を下りてきた。紀子さまはピンクのワンピース姿で、同じ色の帽子、首元には真珠のネックレスが輝いていた。宮内庁からの迎えの車に乗り込んだ紀子さまを、近所の住民など大勢の人たちが温かく見送った。

 結婚の儀や朝見の儀などを終えた2人は、皇居から東京・元赤坂の赤坂御用地にある新居まで車で移動したが、初々しいカップルを一目見ようと、沿道には大観衆が押し寄せた。このとき、秋篠宮さまは24歳、紀子さまは23歳で、'93年6月9日に結婚した5歳年長の兄、天皇陛下よりも約3年、早い結婚だった。 

 結婚して紀子さまの生活は一変した。車で外出する際、窓越しに街の様子を注意深く眺めているという話を関係者から聞いたことがある。皇室に入り、1人で街を出歩くことはかなわなくなっていた。紀子さまは、書店で書棚から自由に本を取り出して読んでみたいとの希望があると、知人が教えてくれたのも新婚、間もないころの話だ。秋篠宮妃殿下となり、窮屈な日常が続いていた。

 2人が結婚した翌'91年10月23日、長女、眞子さんが生まれた。そして、'94年12月29日、次女、佳子さまが誕生し、家族は4人に増えた。

 私は家族で、木造平屋建てだった秋篠宮邸を訪問したことがある。秋篠宮さまは、当時、2、3歳ぐらいの眞子さんと私の子どもたちの前でギターを弾きながら、「アイアイ、アイアイ、おさるさんだよ……」と、歌ってくれた。

 紀子さまは、佳子さまが生まれた翌'95年秋の記者会見で、「2人それぞれの年齢に応じた基本的な生活習慣、大事な事柄、そして感性を大切にしていけるよう努めております」と、答えている。

 秋篠宮ご夫妻は、外国への公式訪問や国内での公的な活動もあり、多忙な日々が続いていた。時間的、精神的にも余裕がないときは、少しずつ軌道修正しながら、親としての責任を果たしてきた。4人の明るく、楽しい様子はマスコミで大きく取り上げられるなど、順風満帆だった。

41年ぶりの男子・悠仁さま誕生による波紋

皇室では41年ぶりとなる男児・悠仁さまを出産後、退院する紀子さまは満面の笑み
皇室では41年ぶりとなる男児・悠仁さまを出産後、退院する紀子さまは満面の笑み

 2006年9月6日。

 秋篠宮ご夫妻の長男、悠仁さまが生まれた。皇室にとっては、秋篠宮さまが生まれて以来、実に41年ぶりとなる男子の誕生で、国民は大きな喜びに満たされた。

 東京都港区の愛育病院に入院していた紀子さまは、胎盤の一部が子宮口をふさぐ「部分前置胎盤」だったため、予定日より約20日早い帝王切開での出産となった。手術室を出た紀子さまを秋篠宮さまが優しく出迎え、「ご苦労さんでした」と夫がねぎらうと、妻は「帰ってまいりました」と、明るく答えた。

 皇室の重要事項を定めた法律である「皇室典範」の第一章第一条には《皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する》と、明記されている。さらに、第九条には《天皇及び皇族は、養子をすることができない》と、定めている。女性皇族は天皇となる資格はなく、結婚と同時に皇籍を離脱し、一般人となってしまう。また、養子をとることもできずに皇室は先細りで、大事な皇位の継承が危ぶまれていた。

 実際に、1965年11月30日、秋篠宮さまが生まれて以来、ほぼ41年もの長い間、皇室には男の子が誕生しなかった。秋篠宮さまの妹、黒田清子さんが'69年4月18日に生まれた後に三笠宮寛仁親王ご夫妻の2人の娘、彬子さまと瑶子さま、さらに、寛仁さまの弟、高円宮憲仁親王ご夫妻の3姉妹、承子さま、典子さん、絢子さんが誕生した。

 続いて、前述したように'91年、秋篠宮ご夫妻の長女である眞子さん、'94年には次女の佳子さまが生まれた。

 そして、2001年12月1日、天皇陛下と皇后雅子さま(当時、皇太子ご夫妻)との間に待望の長女、敬宮愛子さまが生まれたが、ここまで9人も連続して女性ばかりが生まれていた。

 そこで政府はやっと重い腰を上げ、皇室典範改正に向けて本格的に動き出すことになった。

 悠仁さまが生まれる前年の'05年11月に、皇位継承のあり方を検討してきた小泉純一郎首相(当時)の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」は、皇位継承者を「男系男子」に限るとする皇室典範を見直し、女性天皇と母方だけに天皇の血筋を引く女系天皇を容認した。さらに、皇位継承順位は、男女にかかわらず、天皇の第1子を優先することなどの報告書をまとめ、小泉首相に提出した。当時の政府は、国会での議論などを経て、改正案を成立させる方針だった。

 しかし、これに待ったをかけたのが、紀子さまの懐妊だった。'06年2月、紀子さまが第3子を懐妊したことが判明すると、改正に慎重な意見が増え、政府は通常国会への改正案提出を見送った。そして、同じ年の9月6日、悠仁さまが誕生すると政府は皇室典範改正を断念した。

 あれから20年近くとなるが、政府が女性・女系天皇を認めようとする動きはみられない。