美容整形の医師なんて「高須家の恥」
1945年、高須は愛知県幡豆郡一色町(現・西尾市)にある、本能寺の変(1582年)のころから医師を生業とする名家の長男として生まれた。祖母・高須いまは、地主でありながら医院を開業する、地域に欠かせない存在でもあった。だが、農業と漁業しかない田舎町にあって、お坊ちゃまだった高須少年は、色白でふくよかだったため「白豚」といじめられた。
「僕は、医者である祖母を尊敬していたんだけど、祖母から『あんな心の貧しい人になっちゃいけない』と教えられた。だから、いじめられると、『君たちは心が貧しい』って反発していた。そう言うと、また殴られるんだけどさ」
叩かれても、どこ吹く風。その姿は昔も今も変わらない。自らの信念を曲げない高須少年は、学績は常にトップ。名古屋市にある進学校・東海高校を卒業すると、昭和大学の医学部へと進学した。「本当は漫画家になりたかったんだけど、代々医者だからさ」と口をとがらせるが、昭和大学の医学部で出会ったのが、その後、妻となる高須シヅさんなのだから、人間万事塞翁が馬だろう。
「高須家には整形外科医がいなかったから、僕は大学院で整形外科のコースを選んで、傷口をきれいに修復、再生させる形成外科も学んだ。1970年に交換留学生としてドイツのキール大学に行ったんだけど、そこで患者の鼻を小さくする美容整形手術を見て驚いた。面白いなって思って、熱心に勉強した」
日本で、美容整形手術が正式に「医療行為」として認められたのは1978年。それ以前は、社会的には「危険な施術」という位置づけだった。しかし、コンプレックスを持つ人々は、危険を承知で手術を依頼。整形を希望する人は、後を絶たなかった。
美容整形の夜明け前。大学院を修了した高須青年は、1974年に一色町で「高須病院」を開業する。当時の最新技術を提供するのだから、当然、歓迎されると思っていた。
「きれいに治して、すぐに退院できるようにしたら、かえって患者が来なくなった(笑)。みんな、休業補償の認定が欲しいから、治療を長引かせてくれる病院に行くの。病院の事務長から『下手な医者のほうが売り上げがいい』と言われて、ものすごく頭にきた。だったら、保険診療をやめて、自費のクリニックをつくろうと思った。自分が学んだことを生かせる二重まぶたや、鼻を高くする施術をする美容整形専門のクリニックを開業してやろうってさ」
だが、代々医師の家系である高須家の親族は猛反対した。前述したように、美容整形は「医療行為」として、まだ認められていなかったからだ。
「そりゃそうです。美容整形は、病人じゃない人間を診る科です。病人じゃない人間にメスを入れるなんて、やっぱり外道です。医師免許を与えられ、いろんな権限だってある。それなのに、その武器を使ってお金を稼ぐ仕事が美容整形ですから」
「高須家の恥」。そう後ろ指をさされたが、一人だけ共鳴する人がいた。大学で知り合い、卒業後まもなく結婚したシヅさんである。産婦人科医を経て、自身も美容外科医となった彼女は、美容医療は幸福追求の治療“サーチ・オブ・ハピネス”と呼んだ。
「形成外科は医者が納得するための技術だけど、美容外科は患者さんの幸せのためにある。本人が幸せだと感じられるように。若返りも本当に若返らなくていいし、たとえブスのままでも自分が美人だと思えればいい」
患者が喜んでくれるんだったら、喜んで日陰を歩いてやろうじゃないか。ただし、やる以上はアッと言わせてやる。高須院長は、名古屋の大通りに「美容外科高須クリニック」を開設。料金は一律にして、気軽に訪れられる雰囲気を演出した。そして、このとき生まれたキャッチコピーが、今に続く「自分を楽しんでいますか? Yes高須クリニック!」。考案したのは、シヅさんだった。
「夫婦っていうより戦友。うん、戦友なんだ」
視線を外して、言葉を探すようにつぶやいた。












