20代前半で2人の幼子を抱えての離婚。周囲が猛反対したことは想像に難くない。
「現代のように女性が社会に出て就ける仕事などほとんどありません。離婚して自活できるか不透明ななか、彼女は“嫌なものは嫌だ”と自分の気持ちを大事にして飛び出しました。婚家で何があっても耐え忍ぶしかできなかった女性たちに、彼女は“離婚してシングルマザーとして生きる”という道を示したのです」
“女性は生理で感情的になるから、職業に就くのには向かない”
離婚後、上京した和は内職などで食いつなぎながら、28歳で開設されたばかりの看護婦養成所に入学。
そして、日本で初めて専門的に看護を学んだ“トレインドナース”として、30歳で帝国大学医科大学附属第一医院(現在の東京大学医学部附属病院)の看護師長に抜擢される。しかし、そこからが本当の闘いだった。
「当時の病院は完全な男社会。和は、最先端の看護学を学んだプロフェッショナルとして誇りを持って現場に立ちましたが、男性医師たちは彼女たちを一人前の職業人とは見てくれませんでした。
看護師長として、部下たちの労働環境の改善のために“交代制を導入してほしい”“人数を増やしてほしい”といった、今でいう働き方改革を申し出た際も、女が意見すること自体に猛烈な反発が生まれたようです。はっきりと和を否定する言葉が記された当時の当直日誌も残っているほどです」
男女が平等の立場で意見を言い合って働く環境はなく、驚くようなパワハラが横行していたにちがいない。その根底には、教育の場でも“女性は働く能力に欠けている”という教えがなされてきた影響も大きいと田中さんは指摘する。
「信じられないかもしれませんが、当時は学校で“女性は生理で感情的になるから、職業に就くのには向かない”と教えていました。戦後になっても同様の考え方は残り、女性は生理があるから社会で理性的に働けない存在だという科学的根拠のない差別が続いたのです」
結局、高い志を持って挑戦した和だったが、わずか2年で看護師長の職を解かれ、新潟へと向かう。そこで医療現場に携わりながら、多くの看護師を養成する役割を果たしていく。
「安定した職場を辞めて新天地へ移るのは大きな決断。シングルマザーとして一家の大黒柱でもあったわけですから、後悔と不安はあったはずです。それに、仕事に邁進すればするほど、子どもたちと過ごす時間が少なくなることへの悩みもあったのではと」
子育てと仕事のバランスなど、現代の女性たちと同じような苦悩を抱えながら働いていたと想像できる。
「和の功績を知れば、女性の新たな生き方を切り開いた“賢婦”のように感じるかもしれません。でも、時に泣き、怒り、もがきながら仕事と家庭を天秤にかけて苦しむ姿は今の私たちにも通じますし、共感する部分が大きいのではないかと感じます」

















