社会から遮断! 「浦島太郎」のような修業時代
修業が3か月を過ぎたころ、大師匠で、二代目露の五郎兵衛さん宅に移り、住み込みで修業することになる。当時73歳の大師匠の家事手伝いや身の回りの世話、通院の送り迎えなど、一層忙しくなった。
「あのころは社会と完全に遮断されていました。親には連絡できないし、テレビや新聞も見ることができません。3年の修業期間に人気だった歌やドラマはまったく耳に入らない、完全な浦島太郎状態でした」
唯一の発散場所は「日記」だった。感じたことを毎日書き連ねたが、読み返すと、師匠の悪口やネガティブなことばかり。「こんなのを持っていたらロクな人間にならへん」と思い、のちに廃棄した。
面白いのは、子どものころは、スイミング、ピアノ、書道、英語……、何ひとつ長続きしなかったことだ。
「なのに、落語の修業が続いたのは、やれないことが多すぎて、やっと見つけた“これだ!”というものに必死にしがみついたからだと思います」
修業に耐えたご褒美なのか、光が当たり始める。'07年10月から放送されたNHKの朝ドラ『ちりとてちん』の“モデル”といわれるようになり、名が知られていく。
さらに3年の修業が終わろうとしていた'08年の初め、関西の人気番組『おはよう朝日土曜日です』(朝日放送)からレギュラーの出演依頼が届く。
聞けば、修業3年目のとき、上方落語の定席「天満天神繁昌亭」に出演していたところに、番組のプロデューサーが偶然来ていて、目星をつけていたようなのだ。
「でも、関西の看板番組なだけあって、業界特有のしきたりに慣れず、気を張る日々が続き、当時はよく金縛りにあっていました。
タレントとしての仕事も大切ですが、ステーキやカニなどの食レポをしながら、僧侶の道を目指すことに難しさも感じていました」
進むべき道に悩んでいたころ、団姫さんは、太神楽曲芸師・豊来家大治朗さん(48)と出会った。
それは'10年8月、大須演芸場の表を掃除しているときのことだった。
「おはようございます」と入ってきた大治朗さんをひと目見て、「あ、私、この人と結婚する」と直感した。
「服装は、夏なのにコーデュロイのズボンをはいて、めっちゃダサい眼鏡をかけていて、エエッ?と思ったんですけど、そう直感したんです」
当時の表現ならば“ビビビ”だが、実は大治朗さんも“ビビビ”だったそうで、
「僕も結婚すると思ったんです。結婚したいじゃなく」
そんな2人だからデートも3~4回だけ。ほどなく大治朗さんがプロポーズして、交際から半年余りでゴールイン。翌'11年3月のことだ。結婚を機に、『おはよう朝日』の卒業を決めた。
ここからは自分が思い描く生き方を鮮明にしていく。
二刀流も見据えて僧侶への道を歩み始めたのだ。
『おはよう朝日』に出演していた時期から、仏教落語を作ったり、天台宗のキャンペーンガールを務めたりしてきたことから、その志が評価され、出家が認められた。
出家を知った同業者の中には、「落語家をやめろ」とか「売名行為だ」と陰口を言う人もいたが、気にならなかった。
'11年11月に出家。髪をばっさり切って剃髪した。比叡山での最初の修行は60日間。これを終えるとお坊さんとしてのお免状をもらえるのだが、修行はことのほか厳しかった。
三千仏礼拝では、両手、両膝、額の五体を畳につけ、次に立ち上がる「五体投地」を1日6時間かけて1000回行う。それを3日続けると、骨折する人もいるという。さらに、山中の行者道を30キロ近く上り下りする回峰行も。終わるころには足の爪は紫色に……。
「でも、落語家のサガですね。修行中も面白い小咄とかを思いつくんです。我慢できずに隣の人に話しては、一緒に笑って、怒られていました(笑)」
厳しい修行だったが、落語の修業を経験していたので乗り越えられた。


















