『ないしょの牛乳』で直販を開始

 当時の中洞さんはもちろん、現在も日本のほとんどの酪農家は、生乳を農協に出荷している。その受け入れ基準を乳脂肪分3・5%とし、それに満たない生乳は、買い取り価格を半値以下としたのである。

 配合飼料を使わず、自然放牧が基本の山地酪農では、年間を通して3・5%の脂肪分を保つのは難しい。草に水分の多い夏場は、どうしても低くなってしまうのだ。

「法的には3%でもOKなの、今でも。でも独占しているから、自由に設定ができるわけ。0・5%の違いなんて、飲んでも実際はわからないのよ。さらには脂肪をとりすぎる時代になって、メーカーはローファット牛乳なんて作っているのに、酪農家には、“脂肪分の高い牛乳を作れ”」

 この基準改正によって、北海道の放牧酪農は激減。本州の山地酪農にいたってはほぼ全滅してしまったと中洞さん。

「では方向転換して、牛舎飼いして配合飼料を喰わせるのか。やめるという選択肢はないわけですよ、7000万円の借金があるわけだから」

 悩み抜いた中洞さんは、乾坤一擲の勝負に出る。

「“消費者は、本当はどう思っているんだろうか?”と。狭い牛舎に詰め込まれ、身動きもできずにいる3・5%の牛乳と、自由に草を食べて健康に育った牛の牛乳のどちらがいいのか。そこでやったのが、『ないしょの牛乳』」

’94年、桃源郷牧場にて家族と。2男2女に恵まれたが、それぞれ独立。東京ほかで働いている
’94年、桃源郷牧場にて家族と。2男2女に恵まれたが、それぞれ独立。東京ほかで働いている
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 牛乳を販売するためには、大がかりな製造設備がなければならないが、そんな余裕は当然ない。それでペットボトルに無殺菌の牛乳を入れ、販売したのだ。これは法律違反だから、ないしょにしなければならない。それで『ないしょの牛乳』というわけである。

 牧場主が知り合いに牛乳を分けるという体裁をとったこの牛乳は、宣伝はおろか口止めさえしていたというのに、猛烈な勢いで広がっていった。

 わずか1~2戸への宅配から始まった『ないしょの牛乳』は、噂が噂を呼び、その美味しさでまたたく間に評判となり、半年で120戸に販売するほどになっていく。

 1992年5月には、63度で30分の低温殺菌をしてくれる工場が見つかって、ようやっと正式に販売できるように。これを機に、牛乳の名称を『エコロジー牛乳』と命名した。

 食の安心・安全への意識が高まるなか、牛の健康にまでこだわったこの牛乳を、めざといマスコミが目をつけるのに長い時間はかからなかった。

 NHKが取り上げると、地元の岩手放送も追随。ついには櫻井よしこ氏がキャスターを務めていた『きょうの出来事(日本テレビ系)』が3回にわたって取り上げると、問い合わせが殺到することとなった。これをきっかけに、中洞さんは農協への納入をやめ、直販一本で行くことを決意する。

 さらには成長の可能性を感じとった地元銀行が融資を決定。1997年には田老町に牛乳工場を建てることができた。今でも最寄りのコンビニまで車で40分はかかる岩手の山奥での、見事なまでの事業展開であった。

 2003年には東北ニュービジネス協議会の『アントレプレナー大賞』を受賞。2005年には、母校から『東京農業大学経営者大賞』を当時の大澤貫寿学長から受け取った。OBとして、最高の栄誉である。

 苦労や紆余曲折はあったものの、めざましい活躍ぶり。

 だがここで、思いがけない挫折が中洞さんを襲った。