住居内でひとり最期を迎える孤独死は増加の一途をたどっている。誰にも見つけられずに長期間放置され、遺体がドロドロに溶けた凄惨な現場は、まさに無縁社会の最終地点だ。

 一方、「孤独を楽しむ」「最高の孤独」など、雑誌や書籍で孤独を礼賛する企画が人気を集めている。こうした孤独をポジティブにとらえる動きに警鐘を鳴らすのが、『世界一孤独な日本のオジサン』の著者で、コミュニケーション・ストラテジストの岡本純子さんと、孤独死の現場を数多く取材し、『超孤独死社会』などの著作を発表しているノンフィクションライターの菅野久美子さんだ。

 今回はおふたりに、日本人が直面している「孤独」の実態と危機について徹底対談してもらった。(後編)

(前編はこちら)

孤独になることで「依存」に陥る

──ひとりひとりの個性や考えが尊重される多様性の時代になりつつありますが、同時に孤独死の現象も起きている。個人の自由を尊重すると、人と人は断絶してしまうんでしょうか?

岡本 それは誤解なんです。「孤独」と「自由」は全く違うものなので、自立しながらつながりを作り続けないと、人間というものはいけないんじゃないかと思います。逆に「孤独」と「依存」は反対語のように見えて、実は同義語なんですよ。何かに過度に依存すると孤独になるし、また孤独になると、アルコールとかに依存するわけなんですよね。セルフネグレクト(自己放任)の人が家でゴミを集めるっていうのもまさに孤独による依存で、人とつながるかわりにゴミとつながっている。

菅野 孤独死する方はセルフネグレクトに陥ってゴミ屋敷になっている方がほとんどですね。

──岡本さんのご著書『世界一孤独な日本のオジサン』の中で、《「人と人との温かいつながりを作る」ための本質的な議論が悲しいぐらいに置き去りにされている》という一文が刺さりました。なぜ、人とのつながりという資源がこんなに軽視されているのでしょうか?

岡本 日本人は、人とつながっていることは人に甘えていることだと思っているというのがひとつの理由だと思います。そこから独立すること=同調圧力から逃れる、カッコいいっていう連想が働くんですよね。でも本当は、群れる必要はないけれどつながっていないといけない。欧米では個人個人が独立しているけど、個人だからこそひとりでは生きられないことを知っている。日本は抑圧的な集団の中に無理やり入れられているだけであって、お互いがつながってはいない。器をはずされるとみんなバラバラ。日本は集団主義のようで、実は究極の個人主義がはびこっているという考え方もあります。

菅野 それをよしとしているんですかね。

岡本 そうすると、会社からすれば使いやすかった時代があったんです。会社に帰属させたり、忠誠心を持たせるために。

菅野 ああ、なるほど。高度経済成長期の、会社が社員の面倒見て、社宅があって、社葬までしてくれてという時代はコミュニティーがあった。

岡本 今は会社が面倒を見てくれないし、地域コミュニティーもないし。みんなバラバラで空中分解している。つながりがなくなったときに、じゃあ、ひとりでいいですよっていうのは社会として成り立たないですよ。

──その危機感がない。

岡本 最終的には国が福祉で面倒見てくれると思っている。実際、そこまで手が回らないよね。